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日本プロレス、新体制が発足した日

日本プロレスといえば、プロレスの父・力道山が作った協会と興行会社を指します(組織としては別)。興行を行うのは文字通り日本プロレス興行の方ですが、こちらの社長は、力道山亡き後、レスラーとしてもエースだった豊登道春を社長に、芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明という4人の合議制で運営されていくことになりました。たしか、渉外担当が遠藤幸吉で、現場監督が吉村道明だったと思います。

その、新体制は1964年01月10日に発足しました。昭和プロレスとしてはひとつの歴史です。

日本プロレスの新体制
原康史『劇録馬場と猪木1』(東京スポーツ)14ページより

力道山没後の新体制興行は、1964年1月10日のリキパレス大会から始まりました。

一方、日本プロレス協会(Japan Pro Wrestling Aliance 略称:JWA)は、日本のプロレス団体。会長は児玉誉士夫、副会長は田岡一雄(三代目山口組組長)、町井久之(東声会会長)で、浜松以西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一によって興行が行われていたようです(wikiより)

選手は、一応この協会からライセンスを発行されるという建前になっていました。が、まあ、実際は力道山道場で入門を許された者がトレーニングの末にリングに上がるということですね。協会ではなく、あくまでも現場の道場主導ということです。

組織的には、この日本プロレス協会と日本プロレス興行の上に、日本プロレスコミッション(JWC)というものがあり、選手権試合の認定書などを読んでいましたね。コミッショナーは政治家で、自民党副総裁が就任していました。大野伴睦氏や川島正次郎氏らですね。

試合には、よく清和研究会の若手、といっても当時は若手ですが、塩川正十郎氏や森喜朗氏などが代読できていました。



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昭和プロレスの至宝であるインターナショナル選手権は、WWAとJWCが認定する、と認定書の読み上げでいわれていました。

日本プロレスコミッションの事務局長だった門茂男氏の書籍によると、NWAよりもWWAの方が認定料が安かったから、とされています。

いずれにしても、豊登道春、芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明という、のちにダラ幹と呼ばれる体制がこのとき出来上がったという事です。
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