ババ対フレッド・プラッシー。何て昭和プロレスの香りただようマッチメークでしょうか。昭和プロレスの主役、当時はアメリカ遠征中のジャイアント馬場(ババ)は1964年02月28日、ロスアンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで行われたWWA世界選手権試合に出場。チャンピオンのフレッド・ブラッシーに挑戦しました。
これは、よくいわれる「ジャイアント馬場はアメリカ遠征中に世界三大タイトル連続挑戦の偉業を達成した」というところのひとつです。
原康史『劇録馬場と猪木1』(東京スポーツ)68ページより
フレッド・ブラッシーというと、力道山との因縁が思い出されます。WWA世界ヘビー級選手権をいったんは力道山が奪取。しかし、不可解な判定でフレッド・ブラッシーが奪い返しました。
フレッド・ブラッシーは、第4回ワールドリーグ戦にも参加。力道山と毎試合のように戦い、グレート東郷の額を噛みちぎった試合では、視聴者がショック死したと社会問題になりました。
すでにその頃、ジャイアント馬場はアメリカでメインイベント、それもタイトルマッチに出場できるほど出世していたわけです。日本では絶対的な英雄である力道山。実は、アメリカではその弟子のひとりにすぎないはずだったジャイアント馬場も対等のライバルであったわけです。
それにしても、NWA(バディ・ロジャース)・WWF(ブルーノ・サンマルチノ)・WWA(フレッド・プラッシー)という3大世界タイトル連続挑戦というのはすごいですね。
アメリカがプロレスの絶対的な本場だった時代に、主要マーケットの三大王座で選手権試合に呼ばれたということは、ジャイアント馬場はそれだけ稼げるレスラー・客を入れられるレスラーだったわけです。
後に、WWAやWWFはNWAの軍門に下り、NWAの中では主流派になれず、どちらかというと同地のプロモーターは新日本プロレスとのつながりを強めていくわけですが、当時は少なくとも日本プロレスとWWAのつながりが強かったために、ジャイアント馬場、大木金太郎、グレート小鹿など日本プロレスのレスラーはWWAの本拠地・ロスアンゼルスで主力レスラーとして活躍しました。
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ババは人気者だったのです。 売れていたのです。
そして、昭和プロレスは楽しいです。
2013-06-24 23:52
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