第6回ワールド・リーグ戦といえば、日本プロレスの春の祭典。昭和プロレスファン垂涎の大イベントです。力道山死後、日本プロレスの存続が決まっても、この大イベントはどうなるのか心配されました。
インターナショナル選手権を百田家に寄贈するということになり、これまでシングル王座がないまま興行が行われていた日本プロレス。やはり年1回の大イベントは続行せざるを得なかったわけです。
第6回ワールド・リーグ戦が1964年04月03日に開幕しました。
馬場帰国(『劇録馬場と猪木1巻』119ページより)
ジャイアント馬場が新路線の要請に応じて帰国したのが、4月3日蔵前国技館大会。
日本テレビのハッピを着ているところが時代を感じさせます。三菱電機のはっぴはオレンジ色です。
ジャイアント馬場はカリプス・ハリケーンと対戦しました。
この馬場とハリケーン、豊登とジン・キニスキーが優勝を争います。
巡業中のジャイアント馬場とジ・アラスカンです。
2人は仲が良いらしく、日本プロレス崩壊後はそのまま全日本プロレスのリングに上がりました。
ジン・キニスキーです。休日でも正装です。
さて、第6回ワールド・リーグ戦の方ですが結果はどうだったか。ジャイアント馬場は手記でこう記録しています。
「私はリーグ戦公式戦8分3ラウンド1本勝負(ワールド・リーグ戦は第 1回から40年春の第7回大会まで、ラウンド制を採用していた)では、4月17日高松大会でキニスキーと時間切れで引分け、5月9日福井大会ではハリケーンにうまうまと引っかけられて反則負けを喫し、これがたたって決勝進出は成らなかった。優勝戦は5月12日東京体育館大会で豊登とキニスキーが対決、豊登が初優勝を達成している」
当時の星取り表を見ると、ほとんど日外対抗になっていましたが、キニスキーはハリケーンに勝って決勝進出。しかし、豊登VS馬場は行われませんでした。「エースは豊登」という不文律があったのでしょうか。
日本人同士のたたかいというのはほとんどありませんでした。
実はキニスキーもこの時、決勝戦に、ジャイアント馬場と戦わずして豊登が出てきたことに異議を述べています。
自分はカリプス・ハリケーンに勝って決勝に上がってきた。一方の日本陣営は、ジャイアント馬場はカリプス・ハリケーンに敗れたが、豊登は勝ったという理由で、戦わずして豊登が決勝に進出している。これはおかしいと。
ジン・キニスキーは、ジャイアント馬場が当然、勝ち上がってくると思ったらしい。昭和プロレスの不可解な星取りです。
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いずれにしても、この大会で馬場は5勝1敗1分。吉村道明が5勝2敗、芳の里が4勝2敗ですから、ジャイアント馬場は一気に豊登に続くナンバー2になったわけですが、存在感ではもはや日本陣営ナンバーワンだったといっていいでしょう。
ジャイアント馬場の表情、かっこよすぎ、遠藤幸吉の表情、うさんくさすぎです。
昭和プロレスファンでした。
2013-06-26 13:20
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by Bettie (2023-12-01 18:36)