ユセフ・トルコさんが亡くなったという記事が、『東京スポーツ』(11月7日)に小さくでました。いろいろな記事の中にまぎれたきわめて小さい囲み記事なので、その日の東スポを読んでいたとしても見落としてしまうかもしれません。
老舗の日本プロレス時代に活躍し、日本プロレス崩壊後は、アントニオ猪木とくっついたり離れたりを繰り返しつつ、出版物などでプロレスについて発言してきました。
日本プロレスでレスラー、レフェリーとして活躍したユセフ・トルコさんが10月18日、亡くなっていたことが5日、分かった。82歳だった。複数の関係者によると、トルコさんはここ数年、心臓などを患っていたが、本人の意思により訃報は伏せられていたという。
日本プロレス時代から、いわゆる“猪木派”として知られました。
アントニオ猪木が新日本プロレスを立ち上げた際も同調。しばしばプロレスマスコミに登場する当時の写真、アントニオ猪木が酒樽を割り、その両脇に山本小鉄、木戸修、藤波辰爾らが囲む一葉にも登場します。
ところが、いつの間にか仲間割れ。では、ジャイアント馬場の方に行くかというと、馬場はああいう人なので、いったんは猪木派で、しかも袂を分かつようなユセフ・トルコさんを信用するわけがありません。
以後、ユセフ・トルコさんは、77年にスポンサーを見つけて新団体設立を計画。ジャンボ鶴田やサムソン・クツワダを全日本プロレスから引き抜こうとしたり、アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスやアントニオ猪木のことを悪く言う暴露本を出した時、それをプロデュースしたりと、二団体の足を引っ張る活躍をしました。
しかし、裏切るのも仲直りするのも何でもありのアントニオ猪木とはその後和解したようで、『プロレスへの遺言状』という自著では、またしても馬場対猪木が直接対決すれば猪木が勝つ、と“猪木派”を復活。
プロレスへの遺言状
- 作者: ユセフ トルコ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2002/03
- メディア: 単行本
ところが、当時の押山経理部長に「当時のナチュラルな強さなら馬場でしょう」と反駁されると、「そんなもの、リーグ戦とかやってみないとわからない」と、いつのまにか「直接対決」から論点を逸らしていたのは笑えました。
日本プロレス時代は、沖識名と並んでメインレフェリーとして活躍。鉄の爪、フリッツ・フォン・エリックが初来日して日本プロレスが日本武道館に初進出したときの、ジャイアント馬場対フリッツ・フォン・エリック戦を裁いています。
グレート東郷が、日本プロレスのブッカーを切られたことの腹いせに国際プロレスに協力したことに怒り、松岡巌鉄を差し向けて大怪我を負わせたともいわれました。
日本プロレスの幹部が、ダラ幹と揶揄されましたが、ユセフ・トルコさんも“面白困った”面はあったかもしれません。
生前のご遺徳を偲びます。
2013-11-08 14:32
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ア、ワ~~~~ンツ~~~~ゥ…と独特のカウントの声が印象に残っています。
別ログのドロップキックの上手さに関係してきますが、レフェリーなのに(まぁ、元々はレスラーですが)ドロップキックの名手でした(笑)。
試合が決着したのに攻撃をやめない外人レスラーに、よく助走をつけてかましていましたね。
by ラパパポスキー (2014-04-17 16:34)