昭和プロレスファンにとって、永遠に繰り返される議論は、ジャイアント馬場VSアントニオ猪木です。どっちが勝つかという話ですね。まあ、一見猪木が優勢なんだけれども完全決着はつかない。逆に言うと、決着がつかないから安心して議論できる。つまり決着がついちゃったら、もうその話では楽しめないから(笑)
まあ、さながら、文系と理系はどっちが上かという議論と似てますよね。
で、ジャイアント馬場対アントニオ猪木はなぜ完全決着がつかないかというと、しょせんそれは、ウルトラマンと仮面ライダーはどちらが勝つか、という話と同レベルだからです。
プロモーターに雇われて仕事をする商品は、その存在自体がファンタジーのはず。そしてレスラーの価値基準は、いかにウケるパフォーマーであるかということです。
もちろん、「演じる」のは生身の人間ですから、そこから何かの基準で強弱の判定をつけることもできないわけではありませんが、ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、年齢も、レスラーとしてのピークも明らかにズレがあります。
このブログ「昭和プロレス今昔」は、そういう殺伐とした「強弱」の話はテーマではないのですが、昭和プロレスにとって重要なテーマではあるので私なりに予想しますと、日本プロレス時代ならジャイアント馬場で決まり。
2人が別れた1970年代後半以降なら、全日本のリングでやれば馬場が勝つか引き分け。新日本なら間違いなく猪木が勝つと思います。
なぜ、全日本で馬場が勝たない可能性があるかというと、先輩の馬場の奥ゆかしさ表現や、自分より若い猪木に押される姿を見せることによるリアリティという点でも、勝つことなんかよりも引き分けを演じることにメリットがある、という考えも成り立つからです。
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『週刊大衆』(6月16日号)の連載、柳澤健氏の「1964年のジャイアント馬場」で、『東京スポーツ』の記者だった櫻井康雄氏のその件に関するコメントが出ています。
「
BI砲は結成からずっと見ていますが、もちろん馬場が大将で、その前に戦うのが猪木なんですが、猪木がどんどん強くなっていった。
レスラーとしての力は、猪木がどんどん馬場を追い上げ、追い抜いていったという感じがしましたね。盲目的なファンは別ですよ。これは絶対馬場と言うから(笑)。でもプロレスが好きでずっと見ている人間はそう感じていたはずです」
私はBI砲をずっと見ていましたが、たしかにアントニオ猪木の勢いはすごかった。一方、ジャイアント馬場は、その頃から少しずつ胸板や足腰や腕などが細くなっていったと思います。
ただ、「盲目的」だからではなく、それと、当時の商品としての馬場と猪木の問題はまた別だと思うんですね。
アブドーラ・ザ・ブッチャーが、ウソかホントか知りませんが、門茂男氏の本で、第13回ワールドリーグ時点(1971年)での人気は「どこの試合会場でもバアバの人気の方が、アントニオの倍も三倍もある」という話をしていますね。詳しくは、「
昭和プロレスの謎、第13回ワールドリーグ決勝戦」の記事をご覧ください。
ちなみに、門茂男氏は馬場嫌いです。
あと、ユセフ・トルコ氏の『プロレスへの遺言状』という本で、当時の日本プロレスの経理担当だった三澤正和氏が、「当時だったらナチュラルには馬場(のほうが勝つ)」と述べています。
もっとも、BIとしては、1967年から71年までコンビを組んでいますが、三澤正和氏の言う「当時」がいつ頃なのかは定かではありません。
ミスター高橋氏は、自分がマッチメーカーなら、「猪木が先勝するが最終的には馬場の2勝1敗」とやはり自著で述べています。いかにも新日本プロレスのブックっぽいですね(笑)
いずれにしても、櫻井康雄氏こそが、実は盲目的に「絶対猪木」なんじゃないかな、という気もするのですが。
たとえば、櫻井康雄氏はこうも言っているんですね。
第一一回ワールドリーグ戦では猪木が初優勝しましたが、最後に残ったのは、猪木とクリス・マルコ7、ジャイアント馬場、ボボ・ブラジルの四人でした。
猪木対マルコフ戦は内容的にも素晴らしかった。一方、馬場対ブラジル戦は馬場の攻撃にどこか力が入らず、ブラジルに一方的に攻められた印象だった。試合内容を比較して『ああ、これからは猪木の時代だな』と思ったんです。
その年(一九六九年)の暮れにはドリー・ファンク・ジュニアという当時プロレス界で最も権威のあるNWA認定世界ヘビー級チャンピオンが初来日しましたね。ジュニアは二七歳という若い王者で、当然、日本で誰と戦うかが注目された。
当時インターナショナルヘビー級王者とタッグの二冠を持っていた馬場が戦うのは当然ですが、猪木もドリーと戦うことになった。NETが七月から中継を始めたばかりで、日本テレビとの競争もあったんです。
猪木が先にドリーに挑戦することになり、大阪府立体育会館で挑戦した。これが巷間伝えられるノーフォール時間切れ引き分けという猪木の名勝負です。
一日遅れで馬場がドリー・ファンク∴ソユニアに挑戦した。一-一で六〇分時間切れ引き分けでしたが、試合内容を比べると、やっぱり猪木の試合のほうが一時間動きっぱなしで、迫力があって素晴らしかった。
猪木のアスリートとしての凄さを感じました。
一方、馬場は世界チャンピオンと乱闘になっちゃいましたからね。
馬場のピークは六七年夏の大阪球場で行われたジン・ジニスキー戦で、以後は下り坂だったと思います。
私は、最後の1行。「馬場のピークは六七年夏の大阪球場で行われたジン・ジニスキー戦で、以後は下り坂だった」には全く同意します。
ただ、それ以外の試合内容を額面通り受け止めて猪木>馬場としてしまう櫻井康雄氏には、まさに「盲目的」なものを感じました。
どちらも、猪木を引き立てる、という意味があったことにどうして気づかないのでしょうか。
ワールドリーグは、馬場が勝ってはならない試合です。しかも、一度はインターも奪われている対戦相手のブラジルは、今後も商売をしたいレスラーなのです。
したがって、馬場は苦戦する仕事しかなかったのです。
櫻井康雄氏は忘れているかもしれませんが、実は当時の日本テレビのプロレス中継は、ワールドリーグの前夜祭を放送した前の週は、馬場とブラジルのインター戦の再放送を流しているのです。
つまり、「この強いブラジルが来るんだよ」という宣伝ですね。
そういうレスラー。どのみち勝ってはならない試合。ならば、今度の来日につなけげるために、馬場が劣勢になるのは当然でしょう。
NWA戦にしても、当時は先に挑戦する猪木にスポットがあたり、馬場は「ついで」という感じでした。要するに、最初から興業の柱は猪木でした。
猪木は、それ以前にシングルメインイベントを戦ったテレビマッチは1度だけ。ジン・キニスキーに負けた試合ですが。
それ以来のシングルメインテレビマッチだったんですね。
要するに、猪木が本当に馬場との二枚看板になれるかどうか、という意味があって、それで盛り上げていたわけです。
すでに頂上にいて、マンネリ化しているレスラーと、「早く並べ」とプッシュしてもらってぐんぐん伸びているレスラーを比べたら、そりゃ、後者のほうが輝いて見えるでしょう。
でもそれ、目の錯覚ということもありますよね。
もちろん、これはあくまでも当時の商品価値の問題で、繰り返しますが、猪木がメキメキうまくなったり、馬場の身体が衰えたりしたことは否定しません。
昭和プロレス。まったくもって奥が深いですね。
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2014-06-03 01:09
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コメント(3)
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どちらのスタイルも好きです。猪木があっての馬場さん、馬場さんがあっての猪木。
ミスター高橋はしゃべりすぎ。
by ミスカラス (2014-06-03 19:10)
>>ミスカラス さん
>ミスター高橋はしゃべりすぎ。
ははは。そうですね。
本の中には間違いもあるようですし、
レフェリーでなければ知り得ないこともあるのと同時に
しょせん選手ではないからわかっちゃいないことも
あるみたいですね。
by 昭和プロレス (2014-06-14 06:05)
プロレスに限らず、鍛え上げたアスリートが意図的に相手を潰すのは簡単で、その場合に相手は大怪我をするか、甚だしい場合は死に至ります。
逆に言えば、本当の真剣勝負は『だだの殺し合い』です。そんなものは見たところで気分が悪くなるだけですから、スポーツとして成立させる以上は『本当の真剣勝負』はない事になります。
その意味で、ある一定のレベル以上のレスラーは誰もが『最強』で、馬場も猪木も『その中の1人でしかない』と言えるのではないでしょうか。
いわゆるヤオガチ論争/馬場or猪木最強論争も、スポーツ(もしくはショー)の枠内で考える限りは、正答はないでしょうね。
by ジャントニオ猪馬 (2015-01-20 19:02)