ハヤブサが3日、クモ膜下出血で死去したと話題になっています。試合の事故で車椅子になった事自体衝撃的でしたが、47歳の若さで孤独死したという何重にも不幸な「ほしのもと」が、いっそう悲しみをつのらせ、話題性を高めているようです。
ハヤブサは、熊本商科大学(現:熊本学園大学)時代から、肥後ずいきのリングネームで学生プロレスのリングにも上がっていたプロレス好き。
その後、FMWのテストに合格して入団します。
ですから、ハヤブサといえば、元FMWのレスラーですが、新崎人生と全日本プロレスでアジアタッグ選手権(第65代)を取ったこともあります。
当時、参戦を直訴して、グッズ売り場のジャイアント馬場に拝んだり、ジャイアント馬場を相手に例のロープ渡りをしたりと、新崎人生の「活躍」は専門誌に派手に取り上げられていましたが、会場の声援は、ハヤブサに対しても、四天王に負けないくらいありました。
それにしても、リング上の大怪我で一事は再起不能と言われ、せっかく車椅子姿で復帰したのに、今回はその若さでクモ膜下出血というショッキングな病名で孤独死。
FMWは、荒井昌一社長元社長からして不遇な亡くなり方をしましたが、ハヤブサはそれ以上に不幸な気がします。
ハヤブサは、FMWの次期エースとして大仁田厚から後継者扱いされました。
一説には、後継者をめぐる意見の食い違いで、当時ターザン後藤が離脱したとも言われていますが、ハヤブサは後継者としての素質と人気は十分に持っていました。
冒頭のアジアタッグについては、ホームグラウンドのFMWマットで、田中将斗・黒田哲広組相手に防衛戦も行う「快挙」もなしとげました。
何しろアジアタッグ選手権は、全日本プロレス出身の大仁田厚ですら、取ったことのないタイトルです。
常時タイトル戦線に参加していたら、三沢光晴と同団体の最高峰である三冠選手権だって狙えたかもしれません。
しかし、大仁田厚が去ったFMWの興行状態は苦しく、エースとしての責任感が焦りとして出てしまったのでしょうか。
2001年10月22日、試合中のラ・ブファドーラの失敗により頸椎損傷し、何と全身不随の重傷を負ってしまいました。
ハヤブサは、この事故で事実上の引退。
しかし、ハヤブサはその後リハビリで奇跡的に自力で立ち上がり、補助付きで歩けるまでに回復しました。
ところが、不幸の神はそれだけでは気がすまず、まだハヤブサを襲い続けました。
妻と娘2人の家族が、離婚によって離れてしまい、いちばん家族に支えてもらいたい時期に、一人ぼっちになってしまったのです。
そして、今回のクモ膜下出血による孤独死。
頚椎損傷とクモ膜下出血の因果関係はわかりませんが、クモ膜下出血は遺伝の要素が強いといわれますから、まるでこの早逝は、宿命付けられたかのようでもあります。
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アジアタッグ選手権の役割とハヤブサ
ハヤブサのプロレスラー人生のハイライトの一つである、アジアタッグ選手権についても振り返ってみます。
ハヤブサが、全日本プロレスからいかに期待されていたかがわかります。
アジアタッグ選手権の「そもそも」は、1955年11月に遡ります。
アジアのシングル・タッグ両王者を決定するためのアジア選手権が開催され、タイトルを獲得したのは、意外にも力道山チームではなく、キング・コングとタイガー・ジョキンダー組でした。
その後、力道山・豊登組は第3代王者にはなりましたが、その後も取ったり取られたり返上したりと、安定した王者チームではありませんでした。
この当時は、タッグの価値が今より低かったこともありますし、もしかしたら力道山が、自分と同格のパートナーの出現自体を望んでいなかったかもしれません。
それとともに、当時の日本プロレスの外人ルートは、アジア方面がキング・コングを窓口としていたようです。
そのため、ブッカーのために取らせたタイトル、という気もしないではありません。
そして、その後も、強豪外人の箔付けに、いったんタイトルを取らせたようです。
力道山の死後、アジアタッグ選手権は、豊登・吉村道明、豊登・ジャイアント馬場と、一応、日本陣営のトップ2の保持するタイトルとなりましたが、やはりその間も、外人チームにとられることがあり、外人の箔付けタイトルという役割は継続されました。
「外人」と書きましたが、これは日本プロレス所属のレスラーではないという意味で、たとえ日本人レスラーでも、所属でない人の箔付けにもこのタイトルは使われました。
1966年5月、力道山とたもとを分かって単身渡米していたヒロ・マツダが帰国した際、その人気を利用すべく、いったんジャイアント馬場を外して、吉村道明・ヒロ・マツダ組が王者(第15代)になったことがあります。
しかし、この時点でジャイアント馬場は日本プロレスのエースです。
ヒロ・マツダがアメリカに帰った後、またジャイアント馬場が王座に復活しますが、ゲストがおいて行ったタイトルをまた拾ったような印象も否めません。
エースを外したタイトルに、今更またエースがこだわっては、ヒロ・マツダ>ジャイアント馬場、ということになってしまいます。
そこで間もなくして登場したのが、「格上」のインターナショナルタッグ選手権でした。
アル・コステロとロイ・ヘファーナンのファビュラス・カンガルーズが初代王者とされ、日本プロレスには1966年11月、フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスが第6代王者として来日。
ジャイアント馬場・吉村道明が挑戦してタイトルを奪取すると、ジャイアント馬場はさっさとアジアタッグを返上してしまいました。
以来、アジアタッグは、インタータッグが強豪外人のユニット、アジアタッグが名コンビ、ないしは従前どおり、第2番手以降の外人の箔付けタイトルとして位置づけられます。
そして、「外人」が、非所属の日本人レスラーとともに、所属する非主流派レスラーに定義を拡大し、フットルースやノーフィアーもベルトを巻きました。
そういう意味では、戴冠したハヤブサもまた、全日本プロレスで評価され、箔付けをしてもらった一人です。
ジャイアント馬場は、それだけハヤブサを買っていたのでしょう。
アジアタッグをFMWのリングで実現したという「快挙」もいいですが、ハヤブサが最初から全日本プロレスに入団していれば、名伯楽・ジャイアント馬場のもとでレスリングを一から勉強できたはずです。
新日本プロレスで亡くなった福田雅一も、ジャイアント馬場は高く評価していたといいます。
福田雅一にしても、ハヤブサにしても、もし、最初から全日本プロレス所属だったら、と思わずにはいられません。
ハヤブサの生前のご遺徳をお偲び申し上げます。
2016-03-05 14:40
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新聞記事を見て本当に驚きました。
ハヤブサの引退当時、その数年前に起きたプラム麻里子選手のアクシデントでの教訓が生かされず、受ける方も仕掛ける方も危険度の高い技がどんどんエスカレートしていましたから、正直「ああ、またやってしまったか!」と思っていました。
「危ない技をやればお客が喜ぶ。」「そのためならリングで死んでもいい。」と軽々しく言ういう風潮に対して、馳選手は批判的でした。(「人間やめた方がいい。」とまで言っています。)
その後のハヤブサの懸命のリハビリと驚異的な回復には救われる思いもありましたが、決して美談だけで語ってはいけないものを感じていました。
その後三沢もアクシデントで亡くなり…プロレスそのものにすっかり嫌気がさしたほどでした。
「一生をプロレスに捧げ、命をかけて、そしてレスラー人生を全うした。」と言う人は人は多いかもしれませんが…断じて違うと思います!
脛椎損傷とくも膜下出血との因果関係は確かにわかりませんが、ハヤブサという1人のレスラーの人生は、あの頃の無責任な楽しみのエスカレートがなかったら、おそらく全く違ったものになったと思うのです。
プロレスが斜陽化し、集客のためにはインパクトが必要と、派手な(だけの)技が再びエスカレートする事がないよう、業界もきちんと考え、また、観る側もいたずらに煽らない事が必要だと思います。
ハヤブサ選手のご冥福を心よりお祈りいたします。
by ジャントニオ猪馬 (2016-03-06 21:09)