アントニオ猪木除名の真相が出ていました。日本プロレス最大の謎が語られた日本プロレスといえば、まさに昭和プロレスを語る上で欠かせない文字通り日本プロレス界の源流です。その日本プロレスが崩壊したのが1973年。『Gスピリッツ Vol.25』で、久々に表舞台に登場して4万字のインタビューに答えた佐藤昭雄氏が、1971年のアントニオ猪木除名について語っています。
佐藤昭雄氏はジャイアント馬場の付き人でした。そこで、佐藤昭雄氏自身はかけ出しレスラーでも、いろいろ重大な話が当時耳に入って来たそうです。まあ、聞こえても聞かないふりをしていたわけですね。
アントニオ猪木除名事件の真相はやっぱり……
それによると、1971年暮れのアントニオ猪木除名事件は、アントニオ猪木が上田馬之助に対して、「上田、テメエ男と男の約束を破りやがって」と、すごい剣幕で迫ったと語っています。
この件については、もう証言する人も少なくなっていますが、上田馬之助が亡くなる前の東京スポーツの連載で、あれはジャイアント馬場が真犯人だと述べていました。
すでにジャイアント馬場は亡くなっていて「死人に口なし」ですし、当時の関係者では誰もそんな証言はしていませんから、さすがに上田馬之助の責任転嫁か勘違いではないかと思いましたが、その後、上田馬之助は、アントニオ猪木に謝りたいなどと言っているので、やっぱり自分の責任はわかっていたようです。
きっと上田馬之助は、全日本プロレスにおける自分の冷遇を恨んでいて、そんな言い方をしてしまったんでしょうね。
上田馬之助は人格者とみられる向きもあるのですが、真相がどうであろうと、馬場は犯人説はちょっと晩節をけがしてしまったかもしれません。
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藤波辰爾は日本プロレスに残りたかった?
もうひとつ、桜井康雄氏が東京スポーツに連載していた『激録馬場と猪木』では、アントニオ猪木の除名が記者会見で行われていた頃から、木戸修と藤波辰爾の様子がおかしく、そのまま合宿所を抜けだして猪木に追従したように書かれていますが、佐藤昭雄氏によると、少なくとも藤波辰爾は、本当は日本プロレスに残りたかったのに不承不承だったといいます。
付き人は、付いているレスラーを親分とする若い衆のようなところがありますから、残ったとしても居づらくなりますしね。
同じように小沢正志も、義理で坂口征二に付いていかざるを得なかったようですし。
後に、ジャパン・プロレスに移って全日本プロレスのリングに上がれるようになったキラーカーンは、ジャイアント馬場と新潟県タッグを組むと喜んでいましたね。
結局、全日本プロレス対ジャパン・プロレスというテーマのためにそれは実現しませんでしたが、長州力らが新日本プロレスに出戻るときも追従せず、キラーカーンはそのまま引退してしまいました。
佐藤昭雄氏は、当時グレート小鹿に「馬場さんについていくのか」と聞かれ、「ついていく」と答えてからは、試合後の酒盛りでも従来のように注いでくれなくなり、冷淡になったと振り返っています。
まあ、それはしかたないですね。
アントニオ猪木を除名した時は、まだジャイアント馬場がいたわけですが、今度はその馬場がいなくなり、しかも日本テレビも放送をやめている。
いったい、日本プロレスはどうなるんだろうと、残った選手たちは思っていたでしょうからね。
昭和プロレスの最大のミステリー、アントニオ猪木除名事件の真相が久しぶりに語られたわけです。
興味ある方は、『Gスピリッツ Vol.25』をご覧ください。
2014-07-21 23:59
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