坂口征二が、日本プロレスのナンバー2としてのし上がってきたのは1972年暮れ。吉村道明とタッグを組み、アジアタッグ選手権を取って国内初戴冠した時です。その試合は、前チャンピオンであったアントニオ猪木がタイトルを返上したためです。
返上の理由は病気によるものでしたが、その後、アントニオ猪木は除名処分を受けました。
昭和プロレス史上、もっともミステリアスな事件の一つであるアントニオ猪木除名について、その後、新日本プロレスに合流した坂口征二はどうとらえていたのか。
坂口征二は、『東京スポーツ』(2009年10月7日付)の連載で、日本プロレスにおけるアントニオ猪木除名事件について触れています。
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猪木さんはどこか調子でも悪いのか? NWAタッグリーグ戦を制した勢いは消えた。さらに札幌大会でも、日本が誇る最強タッグBI砲(馬場&猪木)がファンクスに敗れ至宝流出。試合後の控え室は、シーンとお通夜のようなムードだった。
王座流出だけが原因ではない。何か皆がトゲトゲしいというか、よそよそしい感じだ。12月8日に大阪入りすると突然、芳の里社長から呼び出され「猪木はダメになった...。征二、お前が行け」と、猪木さんの代役としてドリーに挑戦することを命じられた。猪木さんはケガとも、病気とも伝えられたが、とにかく不穏な空気の中、猪木さんの大阪大会欠場と、私が代役としてNWA世界王座に挑戦することだけが告げられた。
このアジアタッグが、私の国内初戴冠だった。今もあの瞬間の大歓声、そして「征二、よくやった!」と叫ぶ吉村さんの絶叫が忘れられない。
メーンイベントのインターナショナル選手権では馬場さんがテリー・ファンクを下して7度目の防衛成功。控室では馬場さんが戻るのを待ち、芳の里社長の音頭で乾杯したが、何かいつもと雰囲気が違う。そこに猪木さんがいないからなのか?
馬場さんの様子も何かおかしい。その答えは翌日(13日)に判明した。
東京・代官山の事務所で午後3時から会見を行った芳の里社長、そして日本プロレス協会の平井義一会長、選手会長代理の大木金太郎さんが会見を行い「猪木除名」を発表したのだった。
理由は何が何だか分からぬモノだった。
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※猪木が単独で会社(日本プロレス興業KK)の乗っ取りを計画し、会社の書類を無断で持ち出すなどの行動を起こしたことが原因。当初は猪木と選手会長の馬場が手を組み、会社幹部の不正経理を追及、会社改革に乗り出したが、途中から猪木個人の会社乗っ取りに変質していったと報道されている。
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頼みの綱である馬場さんは、この日の早朝から渡米してしまった。どうやら馬場さんと猪木さんの考えが一致せず、会社改革は失敗に終わった模様であるが、真相は分からない...。
会見後、新体制を祝うという趣旨で、先輩選手の音頭で乾杯などをしっつ、笑顔で報道陣からの写真撮影にまで応じていたが、この時点になっても正直、この会社に何が起きて、こんな事件に至ったのか?私は把握していなかった。
リング上では馬場さんや猪木さんに交じりメーンイベントに出場。猪木さんの代役で至宝・アジアタッグ王座を巻きつつも、意識や社内での位置づけは入門4年目の「若手」に過ぎなかった。
翌日、新聞報道で猪木さん側の言い分を目にして、さらに驚かされることになる。
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アントニオ猪木はその後も、その写真撮影のことに触れます。
その後、新日本プロレスに合流した、坂口征二と星野勘太郎が最前列に、永源遙が2列目に映っているからです。
アントニオ猪木の除名を発表した記者会見後、代官山の日プロ事務所では選手会によるビールの乾杯が行われました。(『激録馬場と猪木』 (東京スポーツ新聞社)より)
坂口征二の言う「先輩選手の音頭」というのは、このメンバーならミツ・ヒライとグレート小鹿でしょうね。
とくにミツ・ヒライは、後輩で体もさして大きくないアントニオ猪木が、出戻りの分際で自分の上に位置していたことを愉快に思っていなかったのかもしれません。
この後は、いよいよジャイアント馬場も離脱、そして斜陽の大木金太郎・坂口征二の時代、さらに坂口征二の離脱と続きます。
その真相が、今や数少ない生き証人である坂口征二が語ったところに、昭和プロレスの謎の一つを紐解く意義があります。
2015-12-03 01:18
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