坂口征二が、ジャイアント馬場と遺恨はないものの、合流しなかったことは前回書きました。今回(「東京スポーツ」2009年11月25日付)は、いよいよアントニオ猪木と会い、夢を語り、合流に近づいたあたりが語られています。昭和プロレス的にはエポックメイキングな日といえるでしょう(画像は「東京スポーツ」11月25日付より)
坂口征二は、新日本プロレス設立直後に、「人を介して」誘われていたことはすでに書きましたが、
坂口征二が新日本プロレスから「引き抜き」を打診されていた真相
今度は、やはり「人を介して」アントニオ猪木と直接会うことになりました。
この頃、坂口征二は結婚。新婚旅行の足止めを食う原因となったハイジャック犯が、ポール中岡というプロレス界にもつながりの深い人間だったことに触れた後、アントニオ猪木、ジャイアント馬場が去った日本プロレスは、ファイトマネーの遅配が当たり前という末期的状況になったと告白しています。
おまけに、人間関係もギクシャクして、東京で披露宴を開けなかったそうです。
リングの上ではUN王座やアジアタッグ王座(パートナは吉村道明)を防衛。12月2日には馬場さんと返上したままになっていた至宝インターナショナルタッグ王座も、大木金太郎さんとのタッグでジン・キニスキー&ボボ・ブラジル阻との王座決定戦を制し、新王者に君臨していた。だが観客動員もテレビの視聴率もー向に上昇する気配はない...。
ついにはNET(現・テレビ朝日)側からも「このままでは来年(73年)3月で中継を打ち切る」と宣告された。
この状態でテレビ中継まで打ち切られたら、日プロの命脈は断たれたも同然。そんなある日、明大時代の同級生・マサ斎藤の仲介で、猪木さんと会うことになった。
話はそれますが、当時のNETも勝手なものですね。
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もともと、日本プロレスの中継に割り込み、それが遠因でアントニオ猪木追放につながり、日本テレビの中継を終わらせ、ジャイアント馬場におん出られる原因となり、その結果日本プロレス自体の人気が落ちてくると今度は打ち切りですから……。
一方の日本テレビは、ジャイアント馬場が生きている間は、事実上の親会社として最後までバックアップしていました。
その意味でも、“ダラ幹”は選択を誤ったのかもしれません。
もっとも、猪木・坂口体制になってからの新日本プロレスについては、現在のテレビ朝日はちゃんと面倒みていますけどね。
それはともかく、マサ斎藤がアントニオ猪木と坂口征二を引き合わせた、というのは、すでにファンなら知っている話ですね。
アントニオ猪木と坂口征二が会った場所は、六本木のすき焼き店「らん月」。
正直に告白すると、日プロ時代、猪木さんは最も遠い存在の先輩であった。馬場さんや吉村さんとは巡業中にマージャンをしたり、プライベートでもいろいろと親交があったものだが、猪木さんはどこか一匹狼的なところがあり、巡業中もマージャンなどで時間を漬すタイプではなく、ヒマがあったら練習に没頭しているタイプ。どこか近寄り難いイメージを抱いていた。猪木さんが去った後、マスコミを通じて「片手で3分」「両手で1分」なんてののしり合い、泥仕合を繰り広げたこともあった。
だが、ゆっくりと話し合ってみると「今後のプロレス界はこうしなくてはならない」「プロレスラーはまず練習ありきで」など、私も少なからず抱いていたプロレスの理想、そして「最強のプロレス」を熱く語る人であった。
当時、猪木さんもまた苦境にあったはず。だがその目はらんらんと希望に満ちており、いわゆる「覇気」がみなぎっていた。
お互いにカネはないが、夢と希望に満ちあふれたうたげ。「また会おうや」と言う猪木さんと六本木の路上で握手して別れた。
一説には、ジャイアント馬場よりもアントニオ猪木の方が練習するから、坂口征二はアントニオ猪木を選んだといわれていますが、この連載を見る限り、それは間違いとはいえないかもしれません。
坂口征二は、アントニオ猪木のレスラーとしての「覇気」と「夢と希望」に惹かれたわけです。
アントニオ猪木の“そこ”に惹かれる人はたくさんいて、でも後からトラブルになることは少なくありません。
坂口征二もずいぶん嫌な思いをしたわけですが、やはりそこはレスラー。
レスラーとしてのアントニオ猪木に惹かれた以上、「人間不信」にさせられることはあっても、簡単には絶縁できなかったわけです。
何より、自分が日本プロレスを支えきれなかった挫折感が、その根底にはあるのだろうと思います。
もっとも、その後、新日本プロレスは80年代に黄金時代を築き、坂口征二社長時代はドームにも進出したのですから、坂口征二が新日本プロレスを選んだのは間違いではなかったのだと思います。
そしてそれは、坂口征二を誘わなかったジャイアント馬場の慧眼であったのかもしれません。
しかし、当時、除名したアントニオ猪木と会うことについて、日本プロレスは選手会も含めて、何もクレームをつけなかったのでしょうか。
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その後、『日本プロレス事件史(14)』には、改めてこの件が出ています。
「新日本マット歴史の勇士伝 第2回マサ斎藤」(安田拡了)のところです。
引用します。
さて、猪木は斎藤が誘えば坂口も会うはずだと考えた。
猪木から連絡を受けた斎藤は打算なく坂口に連絡した。
「猪木さんと飯でも食おうや」
そんな斎藤に坂口が拒絶するわけがない。こうして3人は当時、猪木が住んでいた六本木のマンションにある高級すき焼き「らん月」で会った。
「マサやんが猪木さんと会おうやと言ってきたんだ。猪木さんは 『おう、頑張っているか。大変だな、お前んところも』なんて調子で、プロレス業界はこうしなきゃいけないとかいろんなことを猪木さんは話してたよね。その時はそんな感じで合流しようなんていう話はしていないよ」(坂口)
このあとNET(=テレビ朝日)の三浦甲子二専務に呼ばれた坂口と芳の里日プロ社長は新日本と合流するよう説得されて、紆余曲折ありながらも坂口は猪木と合体する。
つまり、斎藤は最初に会う段取りをしただけで、あとは一切、口出しはしていない。
これによると、坂口征二がジャイアント馬場と合流しなかった真相は、テレビ局だったということになります。
ちなみに、この時点で、マサ斎藤は坂口征二と肝胆相照らすほどの仲だったわけではなく、NETと特別な関係にあるわけでもありません。
そして、この年の春に日本プロレスで行われたワールドリーグ戦に参加しており、新日本プロレスの代弁者をする立場でもありません。
つまり、マサ斎藤も、アントニオ猪木とテレビ局に頼まれて2人を会わせただけです。
結局、昭和プロレスというのは、テレビ局によって歴史を作られたのかもしれませんね。
2015-12-08 18:18
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