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国際プロレス創設時の真実と秘蔵写真

国際プロレス

国際プロレスについて、『日本プロレス事件史 Vol.8』(P34~P40)に、興味深いことが書かれていました。ま、あくまでも昭和プロレスファンなら……の話ですが。それとともに、国際プロレスがTBSで放送されることが決定した頃の写真などもご紹介します。


国際プロレスが、吉原功と、日本プロレスへの凱旋で手応えを掴んだヒロ・マツダによって設立されたのは昭和プロレスファンならご存知のことでしょう。

これまでは、グレート東郷がブッカーとなったために、立場がなくなったヒロ・マツダが離脱した、といわれてきました。

ところが、同誌に書かれているマティ鈴木の回顧によると、国際プロレスの興行は赤字で、吉原功は自宅を担保に金を都合したものの、ヒロ・マツダの負担について十分ではなかったことが、袂を分かつ真の原因だったといいます。

ヒロ・マツダにしても、安いギャラでリングに上がり、外人レスラーのブッキング料もとらなかったなど、いい思いをしたわけではないのですが、それだけでは不充分であるほど、国際プロレスの赤字は大きかったのでしょう。

当時、どういう登記だったかがわかりませんが、どちらにも代表権があれば、ヒロ・マツダも応分の負担をすべきだったかもしれません。

吉原功と行動をともにして日本プロレスをやめた、ヒロ・マツダの荏原高校野球部の後輩であるマティ鈴木ですら、600万円を負担。

マティ鈴木はそのままアメリカに行き、2年間ギャラの半分を借金返済にあてたといいます。

そうした状態のため、国際プロレスは、広島の乳業会社社長であった岩田弘氏に株を譲渡する形で資金援助を受けます。

そして、国際プロレスの中継が決定。

プロレス雑誌には、TBSの森忠大運動部副部長と岩田弘氏とブルーノ・サンマルチノが一緒に写っている写真が掲載されたことがありますね。

『TBSプロレス』と改称した国際プロレスによって、『TWWAプロレス中継』が開始されました。

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国際プロレス・今は亡き三羽烏


昭和プロレスファンならご存じのように、日本プロレスの三羽烏といえば、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎です。

では、国際プロレスの三羽烏は、といえば、グレート草津、サンダー杉山、木村政雄(後のラッシャー木村)です。まあ、彼らもみんな日本プロレス出身ですが。

豊登道春は別格という感じですね。

小林省三(後のストロング小林)、寺西勇、井上末雄(後のマイティ井上)が出てくるのはもう少し後。
ただ、ラッシャー木村と、ストロング小林のリングネームは、テレビ(TBS)で同じ時期に公募だったと思います。

「東京スポーツ」(2010年5月26日付)には、ラッシャー木村さんを偲ぶ記事として、懐かしい国際プロレス時代の写真が公開されたことがあります。

それが冒頭の写真です。

三羽烏だけでなく、一緒に写っている外国人も存命の方はおられないのではないでしょうか。ダニーホッジぐらいかな。昭和プロレスは遠くなりにけりです。

サンダー杉山が柔道着なのが目に付きます。

レスリングの前は柔道出身で、アントン・ヘーシンク対ゴリラ・モンスーンの柔道ジャケットマッチでは解説もつとめていましたね。

国際プロレス、当初のスターはグレート草津。ルー・テーズには敗れましたが、イギリス南部・西部とやらの2つのシングルタイトルを取らせました。

日本プロレスから引き抜いた二枚看板の片割れだったサンダー杉山には、豊登と組んでTWWA世界タッグのベルトを巻かせました。

次に売り出すストロング小林とラッシャー木村のために、いったんTWWA世界タッグは外国人にとられ、今度は杉山、木村組で奪還させました。

そして、体が空いた豊登は、今度はストロング小林とIWA世界タッグのベルトを巻きました。

さらに、シングル王者をビル・ロビンソンにしていたことから、グレート草津もまたプッシュし直さなければならず、今度はラッシャー木村と組ませて、ヨーロッパダッグ選手権なるベルトを取らせました。

この時点で、タッグタイトルは3つ。日本プロレスがインタータッグとアジアタッグですから、ちょっと過剰という感じですね。

しかも、TWWA世界タッグとヨーロッパタッグは自然消滅したし(笑)

豊登に追従した田中忠治には、IWAミッドヘビー級選手権なるタイトルを取らせ、その後、それは寺西勇がチャンピオンを名乗った後、いつの間にか違う名前でミレ・ツルノから阿修羅原が取ったことになっていましたね。

この団体の失敗は、タイトルが結果ではなく、はじめに戴冠ありきだったことかもしれません。

タイトルに説得力がないんですね。それは、結局興行として目玉を失うことになります。

日本プロレスは、ジャイアント馬場に、帰国してから2年間は、無冠どころか豊登に継ぐナンバー2をやらせていたのですから。

昭和プロレスもいろいろありました。

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ジャントニオ猪馬

当時、子供心にも国プロはマイナーな印象が
否めませんでした。
日プロの「華」に対しては言うに及ばず、東京12チャンネル(当時)の「本場のプロレス」を見てしまうと…(後から知った事ですが、12チャンのそれは、アメリカの古い映像のビデオ放送でしたが…)。
ビル・ロビンソンがエースになってどこか安心した覚えがあります。
日プロのアメリカンプロレス路線に対して、ヨーロッパのレスラーの招聘に頼るしかなかった国プロでしたが、その面白さがわかるようになったのは随分と後からでしたから、もったいない事をしたと思っています。
by ジャントニオ猪馬 (2016-10-30 11:06) 

昭和プロレス

>ジャントニオ猪馬 さん
コメントありがとうございます。

そうですね。東京12チャンネルのプロレスは、私もフジテレビの
「コント55号の世界は笑う」とどちらにしようか迷いながら観ていました。
そのとき、ボボ・ブラジルが出ていて、ちょうど第11回ワールドリーグの
さなかだったので、急いでアメリカに帰ったのかと思いましたが
父親に「これは10年前の試合だ」と言われて辻褄が合いホッとしたのを覚えています。

日本プロレスが、ブルーザーとかブラッシーとかブラジルとか
個性的なレスラーを招聘するので、地味な欧州レスラーでは
なかなか対抗するのが厳しかったのかもしれませんね。
by 昭和プロレス (2016-11-03 04:57) 

ミスターP

国際は僕が中学の頃、テレビで初放映されたのを覚えています。確か同日同時間帯には会場の(蔵前にあった)国技館と隅田川を挟んで数十メートルにあった(旧国技館の)日大講堂で日本プロレスが馬場対C・リソワスキーのインター戦を当て、試合後の控室で実況の徳光アナ〔当時〕のマイクを奪ってリソワスキーが荒れ捲ったシーンを覚えています。すぐにTBSへチャンネルを切り替えると間もなくエースの草津がテーズの岩石落としで試合続行不能になった姿が映し出されたのにも驚きましたが、その後の放送面での紆余曲折もお茶の間側から感じ取れました。何しろ2シリーズほど経過したら、突然、外人がアメリカレスラーから(ジュニアヘビー・クラスの)欧州選手に代わってしまい、随分とスケールダウンしてしまった印象を受けたものです。
実際に観戦したのは数年後でしたが、すでに最末期に移籍して来た大木金太郎も去ったルー・テーズ杯争奪戦。テーズに初戦で失神の憂き目に遭った元エース草津はセミリタイア状態で、数人の(真面目ながら華のない)選手で金網マッチを連発しながら落日を迎える直前に数回、国プロの会場へ行きましたが、金網がリングを囲むメーンの試合時でも客足は寂しいものでした。その後まもなく北海道の最果ての地で“最終戦”となったと言われておりますが、東京までの数地域で“草プロレス”並みの自主興行を開催して羅臼から帰る旅費等を捻出して帰京したとも聞いたことがあります。
余談ながらアップされた道場での記念写真で柔道着姿のT杉山氏は僕の学校の先輩で、丁度、氏の地元・名古屋へ赴任した折には愛知県体育館での新日の特別試合で観たこともありました。国プロ崩壊前に全日へ移籍したのち馬場氏とも何らかの確執があって、それ以後、新日に特別出場するようになった事情については知り得ませんが…?
by ミスターP (2016-11-10 12:41) 

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