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NWA〇〇チャンピオンの虚実

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NWAといえば、昭和のプロレス史を語るに、最高峰のプロモーター組織として欠くべからざる存在です。当時のプロレス中継やプロレスマスコミ、レスラーのプロフィールには「NWA〇〇チャンピオン」と記載されましたが、それは本当にNWAが認定したタイトルだったのでしょうか。





「認可」と「認定」


漫画『タイガーマスク』には、当時のサム・マソニックNWA会長が、覆面世界チャンピオンを制定しようと提案するシーンがありますが、そこでこう述べています。

「NWAでは、世界チャンピオン、ジャイアント馬場のインターナショナルチャンピオン、各地区のUSヘビー級チャンピオンという3種のタイトルを認定している」

子供心に、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権というのはすごいんだなあ、と思ったものですが、正確にはこれは違いますね。

NWAという組織が管理運営(つまり認定)していてるタイトルは、世界ヘビー級、世界ジュニアヘビー級、世界ライトヘビー級の3選手権で、そのうちNWA本部が直接管掌しているのはヘビー級だけです。

しかし、当時のプロレス中継やプロレスマスコミ、レスラーのプロフィールには、「NWA〇〇チャンピオン」という喧伝がたくさんあります。

たとえば、新日本プロレスのリングでは、NWA北米タッグ選手権が開催されていました。

しかし、NWAはそもそもタッグ選手権は認定していませんから、それはおかしい。

では、虚偽と言い切れるかというと、それもまた微妙なところです。

たとえがアレですが、かの社会のシステムをかりれば、NWAの加盟プロモーターという「直参(二次団体)」が、NWAの代紋をつけたタイトルを管理運営していた、ということです。

かの社会では、直参の二次団体が、おおもとの代紋に自分たちの団体の名前を入れたバッジを使っていました。

ですから、ローカル団体のローカルタイトルでも、たとえばNWAタッグ選手権なんてものがあったわけです。

その点で、正直に実態を表現していたのは全日本プロレスです。

タイトルの管理運営組織であるPWFという二次団体が認定し、NWAは「認可」と表現していました。

選手権試合宣言で、「この試合はNWAが認可し、PWFが認定する……」と読んでいましたね。

その「認可」と「認定」を曖昧にして、加盟プロモーターのリングでは、NWA選手権が行われていたわけです。

そして、NWAは自らが管理運営するタイトルの試合を、加盟していないプロモーターの興行で行うことを当然ですが禁じました。

しかし、加盟プロモーターが管理運営するタイトルにまで干渉はしませんでした。

先の、新日本プロレスがロス版の「NWA」北米タッグ選手権を開催しようが、全日本プロレスがNWA未加盟の国際プロレスのリングでインタータッグ選手権を開催しようが、お構いなしだったわけです。

ジャイアント馬場時代のインターは前半はWWA認定


ところで、日本プロレス時代のジャイアント馬場が保持した、インターナショナル選手権は、どこが認定していたと思いますか。

デック・ザ・ブルーザー戦やクラッシャー・リソワスキー戦について、コミッショナー宣言を聞くと、「JWCおよびWWAが認定する」と読んでいます。

JWCというのは、日本プロレスコミッション。

日本プロレスのタイトル管理運営団体です。

WWAというのは、1969年までロサンゼルスにあった団体です。

NWAという文字は、どこにも出てきません。

一方、WWAは、力道山時代から、日本プロレスとは使い繋がりがありました。

力道山や大木金太郎がここの認定する世界ヘビー級チャンピオンになったり、大木金太郎とタッグチャンピオンだったレスラーのミスター・モトが、日本プロレスのブッカーをつとめたりしました。

日本プロレスは、1969年までは、NWAではなく、このWWA系列の団体だったのです。

門茂男さんの本によると、NWAよりもWWAの方がライセンス料が安かった、とのことですが、そりゃ、全米のプロモーター組織と、ロサンゼルスのローカルプロモーションでは、全く規模が違います。

したがって、日本プロレスでNWA世界ヘビー級選手権が行われたのは、NWA加盟後の1969年にドリーファンクジュニアが来日したときです。

1967年8月には、当時のNWA世界ヘビー級チャンピオンだったジン・キニスキーが来日して、大阪球場でジャイアント馬場と好試合を行いましたが、そのときはジャイアント馬場の持つインターナショナル選手権でした。

NWA未加盟の日本プロレスですから、NWA世界ヘビー級選手権は行われなかったわけです。

WWAがNWAに吸収された、1969年以降のインターナショナル選手権の宣言は、たんに「JWCが認定する」に変わっていますね。

インターナショナル選手権のルーツ


「そんなこというのだったら、力道山とルー・テーズ戦はどうなんだ。力道山のインターナショナル選手権はどうなんだ」というご意見もあるでしょう。

1957年10月15日、後楽園球場特設リングなどて2度行われたルー・テーズ対力道山戦は、NWA世界ヘビー級選手権ではなかったのか、という疑義です。

もし、その当時から組織が規律を持って動いていれば、これはノンタイトル戦だったのだと私は思っています。

ということは、選手権試合という看板は虚偽だったことになります。

世紀の一戦がそんなバカな、と思われますか。

しかし、前例がないわけではありません。

力道山は1963年5月24日、東京体育館でザ・デストロイヤーと「WWA世界ヘビー級選手権」を行い、視聴率は64%を記録しましたが、実は来日前にザ・デストロイヤーは王座から転落しており、ベルトの返還はチャレンジャーである力道山が自分のインターのベルトを使っています。

先の57年の試合も、「NWA世界ヘビー級選手権」ではなく、「NWA世界ヘビー級選手権者の試合」というのが正確な表現ではないかと思っています。

力道山のインターはお手盛り


力道山は、インターナショナル選手権者として、生前日本のリングで19回連続防衛しています。

そもそもこのタイトル、ルー・テーズが1957年11月14日、トロントでディック・ハットンに敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落して無冠になった1958年6月、世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、NWA本部からインターナショナル初代王者に認定。それを、1958年8月27日に、力道山がロサンゼルスで奪取したと言われています。

しかし、帰国した力道山はベルトを持っておらず、ベルトは日本で作りました。

そして、海外では1度も防衛しませんでした。「インターナショナル」選手権なのに。

なぜか、リングアナは力道山を紹介するとき、「世界選手権保持者」と紹介していました。

さらに、池上本門寺にある力道山の墓には、インターナショナル選手権者という記載はまったくなく、短期間所持したWWA世界ヘビー級選手権のことだけが説明されています。

「世界選手権保持者」というのは明らかな虚偽ですが、要するに力道山は、嘘までついても「インターナショナル選手権」と名乗りたくなかったのではないかと思います。

それは、ルー・テーズからそのタイトルを正式に奪取したわけではない、お手盛りタイトルだったことをはしなくも示しています。

そもそも、インターナショナルチャンピオンというのは、タイトルではなく、ルー・テーズの功績に与えられた称号だったのではないでしょうか。

ですから、ルー・テーズは誰に負けようが、インターナショナルチャンピオンであり続ける。

逆の言い方をすれば、かりにルー・テーズに勝ったところで、そのレスラーはインターナショナルチャンピオンにはなれない、ということです。

だからベルトもあるはずがない。

そんなふうに考えています。

昭和プロレス、まったくもって興味がつきません。



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HONDA

S42年12月の 馬場VSクラッシャーのインター選手権宣言で コミッショナーの川島正二郎は「WWA認定」と宣言しています。さしずめ 日本プロレス協会が認定しWWAが認可してるということでしょうか。翌S43年6月にBブラジルがインターチャンプになり ブラジルはWWAの現役チャンプだったので「WWAの2冠王」になっていたということです。このS43年秋に WWAは崩壊しNWAに吸収されたことで S44年 日本プロレスはNWAに加盟して インター王座も NWAに認定してもらったということでしょうか?

by HONDA (2020-11-30 21:19) 

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