ジャイアント馬場に師匠の力道山はコンプレックスを抱いていた。昭和プロレスの新事実です。『週刊大衆』(2月10日号)で連載されている柳澤健氏の「1964年のジャイアント馬場」はいちだんと興味深い話が書かれています。連載第33回、タイトルは「力道山の豹変」。何が理由でどう「豹変」したのか。見て行きましょう。
要約すると、まず力道山は、一時的にせよNWA世界ヘビー級チャンピオンベルトを巻いたジャイアント馬場について国内の報道を制した上で、バディ・ロジャースの日本招聘を画策したといいます。
しかし、それは実現しなかった。
弟子のジャイアント馬場は、バディ・ロジャースと本場のアメリカでNWA世界選手権をかけて会場を満員にして熱戦を繰り広げているのに、自分は相手にされない。
日本プロレス界の帝王である力道山が、アメリカ東部では無名のレスラーにすぎないことを馬場に知られてしまったことに力道山は気づきます。
では力道山はどうしたか。
ロサンゼルスに馬場を迎えに行きます。力道山いわく「ヒーローになったお前を迎えに来たんだ」
『たまにはオレもエンターテイナー』(ジャイアント馬場)によると、この時、力道山はジャイアント馬場が後継者であると明言したことになっています。
これは、ジャイアント馬場の妄想ではなく、ユセフ・トルコ著『プロレスへの遺言状』(河出書房新社)にも書かれているので間違いないでしょう。
同書によると、力道山夫人の敬子さんのインタビューの中で、力道山が「プロレスは馬場に継がせて自分は事業を拡大する」構想を話していたといいます。
この時点で、敬子夫人は全日本プロレスの役員からも離れてジャイアント馬場には是々非々の立場をとっており、ことさらジャイアント馬場を美化することも考えにくいので、リアリティがあります。
連載によれば、「跡継ぎ」にするのは当然だったと書かれています。
馬場だけがアメリカから金を引っぱってこられるレスラーであり、すなわた力道山にとって最も役に立つ人間だからだ。
そして連載は、力道山と馬場が帰国して銀座東急ホテルで会見が行われた祭、力道山が「馬場ちゃん」と読んだと書かれています。
日本プロレス界の帝王で、レスラーにもマスコミにも絶対的な立場であった力道山が、入門3年にも満たない弟子を対等の仲間のように呼んだのです。
さらに、力道山は、自分がバディ・ロジャースに勝ったと大ボラを吹いているのを聞き、アメリカでは誰も知らない力道山がセントルイスでバディ・ロジャースと戦えるはずがない。
それは、自分に対するコンプレックスであると馬場は感じた、と連載に書かれています。
連載には、ジャイアント馬場と力道山のアメリカ遠征地図も掲載されています。
力道山が転戦したのは、サンフランシスコとロサンゼルスだけ。一方、ジャイアント馬場はセントルイス、ニューヨークなどアメリカ東部、フロリダ、そしてロサンゼルスなど東部とまさに全米マーケットをまたにかけています。
当時の馬場のアメリカでの戦績などデータも紹介されていて、毎回力作です。
それにしても、レスラーは嫉妬のかたまりとジャイアント馬場は生前インタビューで語っていましたが、それも師匠の力道山から学んだのですね。
昭和プロレス、サイコーです。
2014-01-27 14:03
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