高千穂明久が、ジョニー・バレンタインを破って、坂口征二の返上したユナイテッドナショナル選手権新王者に輝いたのが、1973年3月8日の佐野市民体育館大会。この模様は、43年前の今日、すなわち3月30日にNETテレビの『NET日本プロレスリング中継』で放送されました。
その日は同番組の最終回であり、それはすなわち、日本プロレスの最後のテレビ中継でもありました。
昭和プロレス的には、忘れがたい日となったわけです。
『東京スポーツ』(2016年3月9日付)の「小佐野景浩のプロレスDiary」では、「日プロ最後の輝き 若き日の歌カブキ高千穂がUN王座奪取」というタイトルで、その日に言及しています。
3月8日の試合を、3月30日に放送する。
プロレス興行はシリーズの合間があり、その間は終わったシリーズの録画でうめるのが当たり前でしたが、それにしても、インターネット時代の現代では考えにくいことかもしれませんね。
それはともかく、経緯を簡単に振り返ります。
日本プロレスは、NETの意向で、坂口征二を通じて日本プロレスと新日本プロレスの合併話が出ましたが、大木金太郎が反対。
すると、他の選手達もそれに同意して、結局坂口征二、木村聖裔(木村健悟)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤(大城大五郎)らが、1972年3月8日の「ダイナミック・シリーズ」終了を以って、日本プロレスを脱退して新日本プロレスに入団をすることになりました。
3月2日の横浜文化体育館大会(坂口征二VSジョニー・バレンタインのUN選手権戦)で、結果的に最後の生中継が行われ、ジョニー・バレンタインが新チャンピオンになりました。
この時点で、NETは、4月から新日本プロレスの中継を行うことを決めていたそうです。
そして、3月3日近大記念会館大会を以って、吉村道明が引退しました。
芳の里淳三社長は、「一番大変なときに泥船から逃げ出すようにやめるのか」と吉村道明に対して怒りを表明。
吉村道明への功労は、アジアタッグ選手権のトロフィーを預ける(贈答ではない)だけで、しかも引退の日には、次の王座を決める決定戦まで行いました。
そして、3月8日には、シリーズ最終戦で、冒頭のように、高千穂明久がジョニー・バレンタインを破ってユナイテッドナショナル選手権を取ったものの、翌9日にNETが、4月からは新日本プロレスを中継することを発表。
そして、日本プロレス中継終了までは、近大記念会館大会(吉村道明引退興行)と、「ダイナミック・シリーズ」最終戦である栃木県佐野市民会館大会の2大会の録画中継のみとする発表も行われたわけです。
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日本プロレス崩壊後は……
まあ、はっきりいって、高千穂明久は、上が抜けていったのと、残ったベテラン選手にも華がなかったので、繰り上げ的に抜擢された感は否めません。
ただ、高千穂明久がチャンピオンのまま全日本プロレスに合流したのに、防衛戦は一切行われず、復活後の王座決定戦には、ジャンボ鶴田がエントリーされました。
しかも、そのつじつまを合わせるように、その前に、王座決定戦出場者決定戦ですらない、ありふれた30分1本勝負を組まれ、ジャンボ鶴田が高千穂明久に勝っています。
要するに、ジャンボ鶴田>高千穂明久であり、王座決定戦出場者決定戦を行うまでもない、ということを、アリバイ的に示すための試合だったわけです。
つまり、高千穂明久がチャンピオンだった日本プロレス時代は「なかったこと」になっているわけです。
高千穂明久にとっては、二重に屈辱だったでしょう。
もちろん、全日本プロレスのために、生え抜きの素質十分であるジャンボ鶴田にベルトを巻かせることは間違いではなかったと思います。
しかし、高千穂明久の立場からすると、日本プロレスからの合流組の冷遇と感じたでしょう。
それに、タイトルというのは選手のものではなく、団体が管理するものなのだ、ということをファンにもしらしめる結果となってしまったことは確かです。
それはそうと、当時は、「ユナイテッドナショナル選手権」といわれ、「ユナイテッドナショナルヘビー級選手権」、つまり「ヘビー級」はつかなかったと思います。
「インターナショナル選手権」もそうですが、ジュニアヘビー級選手権試合が日本のリングで頻繁に行われるようになって以来、「ヘビー級」は必ずつけるものになったようです。
たしかに、「インターナショナルジュニアヘビー級選手権」という名称はあります。
が、「ユナイテッドナショナル選手権」には、「ジュニアヘビー級」は現在でもありませんから、当時に合わせて、「ユナイテッドナショナル選手権」で今回の記事も通させていただきました。
2016-03-30 18:10
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