SSブログ

日本プロレスリング興業株式会社の再興夢想実現せず!

日本プロレス.jpg

日本プロレスリング興業株式会社、すなわち力道山、豊登、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らを輩出したプロレス団体のことです。昭和プロレスの世界ではまさに中心となった舞台です。同社は1973年4月に団体が崩壊したはずですが、登記上は平成8年に「解散登記」だけ行われ、会社を抹消する「清算結了」が行われていませんでした。





法人登記というのは、たとえば不渡りを出した「倒産」で消えてしまうわけではありません。

まず、「解散登記」をして、登記上も会社が“終わった”手続きを行い、その間に負債などを整理して、仕上げに「清算結了」といって、完全にその法人を葬ることになります。

あるとき、試しに日本プロレスの登記簿を調べて見ました。

日本プロレス登記簿

もう崩壊した団体だからないかなと思ったら、ありました。

本社所在地が「渋谷区代官山」、設立が「昭和36年9月14日」、

事業の目的は

1.プロレスリング興行の経営
2.ボクシング興行の経営
3.映画演劇の興行及び製作
4.前各号に附帯する一切の業務

となっています。

設立が、第3回ワールドリーグのあった年ですが、その前は会社組織にもなっていなかったのでしょうか。

グレート・アントニオで大儲けしたので、税務上、会社組織にする必要があったのかもしれません。

しかし、一点、登記上、解せないことがありました。

日本プロレスリング興業株式会社は、「解散登記」だけを行い、「清算結了」を行っていないのです。

「解散」だけで「清算」まで行っていないということは、たんにいったん活動を停止しますよ、というだけで、実は手続き上は、もう1度その会社を再興することができるのです。

つまり、あの、力道山が興し、百田敬子や豊登道春(定野道春)や芳の里淳三(長谷川淳三)らが代表取締役をつとめ、馬場正平や猪木寛至や大木金太郎らも取締役として名を連ねた、歴史と伝統ある「日本プロレス」を、登記上復活させることができるというわけです。

なのに、その会社は、誰も再興していない。

プロレス好きの金持ちマニアが、とっくに手を付けてもおかしくないのに。

誰も気づいていないのか。

解散登記した登記簿は、2人の監査役の名前だけが書かれています。

その監査役に話をつければ、もしかしたら、日本プロレスという会社が自分の手に入るのかも知れない。

こ、これは、すごいことだ、と思いました。

だって、それによって、芳の里さんが全日本や新日本に売り飛ばしたもの以外の、日本プロレスの権利を自分のものにできる可能性があるのです。

あの王冠の社章を復活させて、ジャージを作れるのです。

丹念に権利者を探して交渉すれば、日本プロレス時代のコンテンツを管理できるかもしれないのです。

昭和プロレスファンである私は、トンデモないことに気がついてしまったと、ガタガタ身震いしました。

もちろん、(マニアの価値観ですが)そんなウマイ話が、手付かずになっているのは常識的に見ておかしい。

誰も日本プロレス再興に手を付けない理由も予想してみました。

反社会的団体へと思われる使途不明金が、アントニオ猪木の除名事件につながったと聞いているので、会社を買い取ったら、“そういう人たち”との関わりができるのか、とも心配しました。

しかし、今は時代も法律も変わっており、また金銭的な何らかのつながりがあったとしても、40年以上もたっており法的にも成立しない話だから大丈夫だろう、と思いなおしました。

ただ、どうして「解散」だけで「清算」しなかったのか。

それがどうしてもわかりませんでした。

そもそも、解散は平成8年(1996年)であり、団体が崩壊した1973年から23年もたっています。

団体崩壊後も、NWAの役員としての投票権を確保するために、6年間は会社が名目上存続したのは当時から知っていましたが、まさか1996年まで残っていたとは……。

しかし、ネットで法人の登記と解散・清算について調べていくうち、その理由がわかりました。

スポンサードリンク↓

日本プロレスは「解散みなし」法人だった


登記簿によると、「解散」は、「平成8年6月1日平成2年法律第64号附則第19条第1項の規定により解散」と記載されています。

これは、要するに、平成2年の商法改正による最低資本金規制の導入に基づく「解散みなし」だったのです。

「解散みなし」とはどういうことかといいますと、平成2年の商法改正により、改正法施行時点で最低資本金に達しない会社については、施行日から5年の猶予期限までに、最低資本金に達するよう資本増加させるか、又は組織を変更するかが要求されました。

株式会社の最低資本金は、1000万円でした。

ところが、日本プロレスリング興業株式会社の資本金は500万円なのです。

そこで、法律によって平成8年に解散させられてしまったのです。

つまり、それまで日本プロレスリング興業株式会社は存続していたということになります。

では、「解散」法人は復活できると書きましたが、日本プロレスリング興業株式会社は復活できるのか。

残念ながら、「平成8年6月1日平成2年法律第64号附則第19条第1項の規定により解散」した法人については、それはできません。

最低資本金を満たさない「解散みなし」の場合、3年以内なら復活させることはできたのですが、どうやら誰も手を付けなかったようです。

現在登記上残っている「解散みなし」法人は、現在の法律では復活の方法がなく、「解散」のままか「清算」するかしかありません。

しかし、ご存知のように現在再改正された、いわゆる新会社法は、資本金が1000万円に達していなくても、また取締役が一人でも株式会社として成立することになっています。

ですから、今後、また法改正して、「解散みなし」法人の継続が可能になれば、復活させることはできるはずです。

それにしても、1996年の段階で、誰も手を付けなかったというのはもったいない話です。

その時点では、最後の社長の長谷川淳三さんもまだご存命でしたから、交渉だってできたはずです。

法律は、時代によって変わっていきますから、いずれ、「解散みなし」法人の救済・継続の話も出ることがあるかもしれません。

そのときをじっと待ちたいと思いますが、でも、今回ブログに書いちゃったから、そのときはマニア間で競争になっちゃうかもしれませんね。

日本プロレス事件史 vol.25 (B・B MOOK 1332 週刊プロレススペシャル)

日本プロレス事件史 vol.25 (B・B MOOK 1332 週刊プロレススペシャル)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ベースボールマガジン社
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: ムック

nice!(1)  コメント(5)  トラックバック(0)  [編集]
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 5

トーツ主水

興味深い話ありがとうございます。登記簿には会社成立が昭和36年とあります。ウィキペディアなどには力道山死後、芳の里、遠藤、豊登、吉村の4人が別の「日本プロレス」を設立した…とあります。つまり、日プロ崩壊時の日本プロレスは別の会社なのではないでしょうか。
ただ読んでいるだけで申し訳ないのですが、そちらの日本プロレスについても調べていただきたいと…。虫がよすぎますけどね( ̄▽ ̄;)
by トーツ主水 (2016-09-23 20:02) 

ジャントニオ猪馬

ついに出ました!(まるで昭和45年の馬場対キニスキーのインター戦の清水アナですが…)
←いきなり閑話休題ですね…
日プロ登記簿、ついに出ました!
「解散みなし法人」とか、わかりにくいけれど興味深い事情を垣間見た思いです。

余談ですが、このコメント欄の皆様方はみな面白いネームを考えるものですね?。
(私のはセンスに欠けて安直です…[わーい(嬉しい顔)][あせあせ(飛び散る汗)])
by ジャントニオ猪馬 (2016-09-24 19:18) 

昭和プロレス

>ジャントニオ猪馬 さん
コメントありがとうございます。

もっと早く気づけば
会社復活ができたかもしれないのに、と残念です。
新日本と全日本の80年代の引き抜き等の緊張、
そして90年代は四天王プロレスと続いたので
日本プロレスのことまで気が回らなかったんですね。
by 昭和プロレス (2016-10-21 04:03) 

昭和プロレス

>トーツ主水 さん
コメントありがとうございます。

ダラ幹版と、百田敬子版の2つの「日本プロレス」があったことは確かです。

4人が新会社を作ったのか、百田敬子さんが新たに登記したか、
当該登記簿のすべての履歴が出せなかったので
どちらかの断言はできませんが

ただ、4人が新会社を起こしたのなら、力道山死後(つまり昭和39年以後)でなければおかしいので、
昭和36年登記のこの登記簿では、辻褄が合いません。

それと、住所が、代官山の日本プロレス事務所があったところになっていますが、
百田敬子版は代官山ではなく他区(青山だったかな)の登記だったと思います。

その2点から、たぶん力道山→百田敬子→定野道春→長谷川淳三と続く「日本プロレス」の登記簿だと思います。

そして、ややこしいことに、百田敬子版「日本プロレス」にも
馬場正平さんと長谷川淳三さんが役員になっていたので
そのつながりもあって

昭和48年春に興行機能を失った「長谷川淳三版日本プロレス」から
選手たちは、「力道山のもとに帰る」として
百田敬子版「日本プロレス」の預かりになり、
さらにその役員である馬場正平さんの
全日本プロレスの預かり(契約者は日本テレビ)になったのだと考えられます。

いずれにしても、全日本プロレスと日本プロレスの「合併」などと
報じた当時のプロレスマスコミは虚偽報道です。
なぜなら合併したら、日本プロレスは消滅しなければならないからです。
たんに選手がうつっただけで、会社自体は残っていたのです。
ですから、「合併」ではなく、選手の「合流」、もしくは「移籍」が正しい表現だと思います。
by 昭和プロレス (2016-10-21 04:13) 

トーツ主水

なるほど。2つの日本プロレス興業が人的にも複雑に入り組んでいるんですね。
猪木の乗っ取り未遂に関し、彼がどのような手段で日プロの経営権を手に入れようとしたのか謎だと思っています。彼は取締役だったのでしょうか。取締役会や株主総会でダラ幹の解任を提案する構想だったのでしょうか。その場合の多数派工作はどうするつもりだったのでしょう。誰か明らかにしてくれませんかね。日本プロレス裏面史の最大の事件なのに分からないことばかりです。
ひょっとしてギミック?それはありませんよね(笑)
by トーツ主水 (2016-10-25 13:05) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました
Copyright © 昭和プロレス今昔 All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。