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インターナショナルタッグ選手権の由来

インターナショナルタッグ選手権の由来ってご存知ですか。それは後半に書きます。まず、日本における最初のインターナショナルタッグ選手権チームって誰かご存知ですか。BI砲? じゃないんです。ジャイアント馬場と吉村道明のコンビなんです。意外でしたか。

昭和プロレスのエース・ジャイアント馬場、吉村道明組といえば、豊登が抜けた後、アントニオ猪木が日本プロレスに復帰するまでの日本ナンバーワンコンビです。現役のアジアタッグ選手権チームとしてインターナショナルタッグ選手権も奪って、タッグ2冠王になりました(すぐにジャイアント馬場はアジアタッグの方を返上)。

ジャイアント馬場をして、タイムマシンにのって過去に戻れれば、組んでみたいパートナーは吉村道明と坂口征二だとある自伝で書いています。

アントニオ猪木や大木金太郎とのコンビでは、いつもライバル意識を持たれて気を使ったとか。その点、滅私奉公をモットーとしていた吉村道明や、後輩として出過ぎた真似をしない坂口征二なら、そういうところに気を使わずに試合に集中できたというわけです。

そのジャイアント馬場と吉村道明ですが、1967年5月1日、広島県立体育館でインターナショナルタッグ選手権の防衛戦を行い、チャンピオンチームが、ザ・デストロイヤー、ダン・ミラー組を2-1で下しました。

馬場吉村対デスト・ミラー
『劇録馬場と猪木5』(東京スポーツ新聞社)135ページより

写真は、試合前に撮影されたのですが、みんなニコニコしてどこか間が抜けています。

だいたい、ありふれた公園でこんな撮影をすること自体、失笑を禁じ得ません。

それでも会場は満員。広島は、やはり3月にインタータッグ戦が行われたばかりなのですが、当時はそれだけプロレスの人気が高かったのですね。

時代は馬場全盛期の昭和プロレス。全国を旅しながらファンの拍手や歓声を浴び、金を稼いでいく。馬場でなくとも、プロレスっていい商売だなあと思います。この頃の猪木といえば、東京プロレスで苦労して出戻ってすぐの頃ですから……。

インターナショナルタッグ選手権は1966年(昭和41年)11月5日、東京・蔵前国技館でジャイアント馬場、吉村道明組がマイク・パドーシス、フリッツ・フォン・ゲーリング組を破り日本に定着させました。

日本にはインターナショナル選手権がありますから、そのタッグ版と思われがちですが、ベルトの形も、その由来も全く異なります。

インターナショナル選手権の方は、王者に認定されたルー・テーズから、昭和プロレスの父・力道山が奪ったものですが、タッグの方は、オーストラリアで初代王者チームとしてザ・カンガルーズ(アル・コステロとロイ・ヘファーナン)が認定され、馬場、吉村組が7代目ということになっています。



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2~5代目はよくわかっていません。

曖昧じゃだめですか。

曖昧なところも、昭和プロレスの面白い所なのです。

激録 馬場と猪木〈第5巻〉猪木復帰でBI砲誕生

激録 馬場と猪木〈第5巻〉猪木復帰でBI砲誕生

  • 作者: 原 康史
  • 出版社/メーカー: 東京スポーツ新聞社
  • 発売日: 1998/10
  • メディア: 単行本

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