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ジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキー、国際プロレスつぶしの連戦

ジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキー。言うまでもなく昭和プロレスの大物同士のビッグカードです。インターナショナル選手権をかけて、昭和42年暮れ、昭和43年正月と連戦が行われました。表向きは、12月の試合が荒れて両者納得行かずに43年に再戦ということになっていましすが、43年に旗揚げ戦を行う国際プロレスつぶしとして、1月血戦に向けて盛り上げていく展開であったことは今はファンですらわかっています。それを振り返ってみましょう。

ジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーは、昭和42年12月6日、東京体育館でたたかい、大変な流血戦の後、クラッシャー・リソワスキーのメリケンサックパンチでジャイアント馬場をメッタ打ち。

シャツを破られた沖識名レフェリーはクラッシャー・リソワスキーの反則負けとしました。

これによってジャイアント馬場は、インターナショナル選手権17回目の防衛に成功しましたが、試合後もクラッシャー・リソワスキーは「俺がフォールをとっていた」と、マイクを向けた徳光和夫アナにアピール。

ジャイアント馬場も納得がいかず、結局この試合は翌43年の1月3日に再戦されることになりました。

当時の試合の模様は、YOUTUBEにアップされていました!

ジャイアント馬場vsクラッシャー・リソワスキー


そして、翌43年1月3日に再戦が行われたわけですが、いかにも12月の試合が荒れて1月に再戦となったかのように見えるこの戦い、実は逆で、最初から1月血戦を盛り上げるために12月の戦いがあったと見たほうがよさそうです。

というのは、やはり昭和43年1月3日、国際プロレス(TBSプロレス)は、ルー・テーズとグレート草津によるTWWA世界ヘビー級選手権試合をメインとする旗揚げ戦を両国日大講堂で行うことになっていました。

一方、日本プロレスは同日、蔵前国技館で興行を行います。

新興勢力をつぶすためには、最初が肝心。

ルー・テーズがかすんでしまうようなビッグカードを持ってこなければなりません。

そこで、行われたのが、ジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル選手権です。

それも、ただ漫然と行うのではなく、クラッシャー・リソワスキーのすごさを見せた上で、両者の間に因縁を作って盛り上げておけば、当日は盛り上がります。

この日本プロレスと国際プロレス(TBSプロレス)の興行戦争は、プロレス史上有名な「隅田川血戦」といわれたものです。



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それはそうと、『東京スポーツ』(8月30日付)では、昭和42年12月6日の試合の調印式の様子が掲載されていました。

東スポ・クラッシャー・リソワスキー.png
 写真は46年前、インターナショナル選手権(昭和42年12月6日、東京体育館)を2日後に控え、東京・永田町のグランドホテルで行われた調印式のもの。
 挑戦者のクラッシャー・リソワスキーはふてぶてしい表情でビールをラッパ飲みし、王者のジャイアント馬場はそれを苦々しい表情で眺め、真ん中に座る川島正次郎コミッショナー(自民党副総裁=このホテル内に事務所を構えていた)は我関せずといった表情でたばこをくゆらせているという構図だ。
 現在公開中の宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」の劇中で、登場人物の喫煙シーンが問題視され、何かと論議されているが、このプロレスの調印式における1枚の写真だけで、酒とたばこがしっかり登場。あとは馬場がヒザに美女でも抱いていれば「酒・タバコ・女」と、昔から男たちが好んでやまない3大アイテムが勢揃いするところだった。
 現在、調印式など公の場で、酒を飲んだり、たばこを吸ったりすれば、たちまち「非常識」の烙印が押されてしまうが、この時代はまだ酒もタバコも男たちが普通に好むアイテムの1つ。
 調印式でビールをラッパ飲みしてしまう無法者・リソワスキーですらも、大切な調印式とあってグレーの背広と渋めのネクタイを着用。馬場はノーネクタイだがコバルトブルーの背広にスポーツシャツの正装で調印式に臨んでいるのも時代を感じさせる。
 この調印式で先日、馬場家への返還が決定した3冠王座の1つ、インターナショナル王座のチャンピオンベルトを手にしたリソワスキーは「このベルトさえ手に入れれば、オレは億万長者になれる」と胸を張っていた。ベルトも調印式も、格式が高かった時代だったのだ。


1月のジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル選手権は大変な盛り上がりで、クラッシャー・リソワスキーが流血した顔面のアップでマイクをかじるシーンがテレビでも放送されました。

一方、国際プロレス(TBSプロレス)は、ルー・テーズのバックドロップを食らったグレート草津が起き上がらず試合放棄。きちんとした試合を作れず、はっきりと明暗を分けました。

以来、国際プロレスは日本プロレスを凌駕できず、グレート草津もタッグタイトルは何度か取るものの、団体のエースにはなれませんでした。

昭和プロレスの歴史の中でも、身震いするようなエキサイティングな時期でしたね。

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某レトロファン

隅田川決戦は日プロの圧勝でした。
リソワスキーにシャツをビリビリに破かれリング下に放り出された沖レフェリーが、馬場の32文一閃と同時にリングに戻り3カウント。
一方の国プロの方は、TBSテレビ主導でスターを作ろうとした(→グレート草津)事にルー・テーズが立腹して、わざと急角度で落とすバックドロップで草津を失神させ、試合放棄に追い込んだとされています。
これが両団体の明暗を分けました。
by 某レトロファン (2014-04-16 01:01) 

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