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ジャイアント馬場、インターナショナル選手権王者となる

ジャイアント馬場が、日本のチャンピオン(清水一郎アナ)と呼ばれるようになった日はまさにこの日からでしょう。昭和プロレスのエース・ジャイアント馬場が1965年11月24日、力道山がかつて名乗っていたインターナショナル選手権の復活王座争奪戦で王者となりました。これは、日本プロレスが、ジャイアント馬場を正式にエースとみとめた日でもあります。
インターナショナル選手権のベルトを巻くジャイアント馬場
ジャイアント馬場、インター奪取(原康史『劇録馬場と猪木3』55ページより)

インターナショナル選手権は、まさに昭和プロレスの象徴です。

同選手権は昭和33年、力道山がルー・テーズを破って王者に認定されました。

力道山の死後、昭和プロレスの象徴であるインターナショナル選手権はベルトごと百田家に贈与されました。

それが2年たち、新しいベルトを作って名称が復活しました。

その理由は、昭和プロレスのエース・ジャイアント馬場に大きな仕事をさせるためです。

復活インターナショナル選手権は、記録によれば王座決定戦出場のための争覇戦が行われ、馬場は6試合を4勝2分で通過。65年11月24日の王座決定戦(大阪府立体育会館)でブルーザーを破り、日本プロレスの、そして昭和プロレスのエースとなります。

背後でベルトを巻いているのは前エースの豊登。豊登にはロスの王座(WWA世界)につかせて立場をたてておきながら、「日本のエース」としてのタイトルは馬場に取らせる。しかも、王座決定戦を盛り上げるために争覇戦までやっている。当時のダラ幹の興行センスは、なかなかのものです。昭和プロレスは奥が深い。

ちなみに、当時のインターナショナル選手権は、NWAではなくWWAとJWC認定でした。門茂男氏によれば、WWAの方がNWAよりもライセンス料が安かったからだとか。昭和プロレスらしい話です。



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当時のビデオを見ると、コミッショナー宣言の際、「WWAおよびJWCが認定する」と言っているのがわかります。門茂男氏は本当のことを言っていたわけです。

とにかく、豊登の世界選手権と同じ団体が認定しているタイトルだったということです。

ということは、タイトルとしての格は豊登のWWA世界選手権の方が上(世界>インター)ということになります。

が、そこはプロレス。とりわけ昭和プロレス。ベルトの価値は名称や団体ではなくチャンピオンによって決まるのです。

WWAはその後、 NWAに吸収されますが、インターナショナル選手権は日本プロレス界の看板タイトルになります。

まるで、ソ連に大統領制度を作り、ゴルバチョフ氏をそこに棚上げして、自分は「格下」のロシア大統領に納まりながら、結局ソ連は崩壊したボリス・エリツィン氏を思い出しますね。

ちなみに、このときはあくまで「インターナショナル選手権」であり、「インターナショナルヘビー級選手権」ではありませんでした。

昭和プロレスがいよいよ楽しくなるのです。

激録 馬場と猪木〈第3巻〉難敵連破、馬場インター王者

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  • 作者: 原 康史
  • 出版社/メーカー: 東京スポーツ新聞社
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