ジャイアント馬場の全日本プロレスが創設されたのは1972年。日本テレビがバックにつき、力道山家が役員に入り、ドリー・ファンク・シニアがガイジンルートを保証してくれた上にNWA臨時総会まで開いて加盟をしてくれ、さらに伝統の日本プロレスが合流。これ以上ないお膳立てでした。一方、新日本プロレスはアントニオ猪木が日本プロレスを除名されて創設。テレビも当初はつかず、強豪ガイジンは華がないカールゴッチだけ。にもかかわらず、1974年を境に両団体は勢いが逆転します。
時折このブログでも追いかけている『週刊大衆』の連載、「1964年のジャイアント馬場」(柳澤健著)について書きます。毎週話が進むので、追いかけるのも大変です。
タイトルの「1964年」というのは、力道山が亡くなった翌年のことです。昭和プロレスという範疇でもかなり昔になります。つまり、ジャイアント馬場がグレート東郷から大金の契約書を提示されてもアメリカに残らず帰国。名目上のエースは豊登でも、誰もが日本プロレスの新しいエースだと見ていた頃の話です。
なぜそれがタイトルなのかといえば、著者の考えでは、たぶんジャイアント馬場の絶頂期は1964年である、という考えなのだろうと思います。
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では、一方の雄、アントニオ猪木はというと、こちらは1974年がピークと見ているようです。
すなわち、坂口征二が合流してNETテレビがつき、ストロング小林や大木金太郎などと日本人対決、元同門対決などを行い、タイガー・ジェット・シンという、本場アメリカでは無名のインド系カナディアンを悪役スターに育て上げ、潤沢な資金とガイジンルートをもっていたジャイアント馬場の全日本プロレスを勢いで凌駕するあたりです。
そうやって考えてみると、BI砲とはいいますが、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の全盛期は10年も違うということになりますね。
で、連載は、その1974年のあたりに入ってきています。
ですから、ジャイアント馬場ファンにとっては、ちょっと辛い時期ですね。
6月23日号では、ジャイアント馬場が、すでに時代遅れであることを書いています。
馬場が日本テレビから受け取った制件費は莫大なものだったに違いない。
しかし、それに見合う視聴率はまったく獲得できず、興行収入も少なかった。
慌てた日本テレビは、テコ入れのために東京オリンピック金メダリス下のアントン・へーシンクに大金を支払ってプロレスラーに転向させ、アメリカで修行中のジャンボ鶴田をわずか半年で呼び戻した。
馬場が思惑の外れた日本テレビから強烈な突き上げを食らっていたことは想像に難くない。(中略)
結局のところ、全日本プロレスの不振は、プロモーターである馬場の考えが時代遅れになっていたことにあった。
全日本にやってくるメンバーは確かに一流だったが、ほとんどは来日経験のあるレスラーばかり。サンマルチノの初来日は一九六七年だが、それから五年が過ぎ、馬場は三四歳、サンマルチノは三七歳になっていた。
五年前と同じことをすれば大丈夫、日本プロレスの焼き直しをやっておけば客はくる、という馬場の考えは、あまりにも甘すぎた。
一方、カネもガイジンもないアントニオ猪木は、上記のように華々しく上昇した。
著者は、そのへんをこう分析しています。
アメリカ人にとってプロレスは娯楽以外の何物でもなく、プロレスに意味や思想など求めない。
ディズニーランドに思想を求めないのと同じだ。
馬場もまた同様だった。プロレスラーには、客を呼ぶ戦略は必要でも思想など必要ない。
しかし、天才・アンートニオ猪木は、自分のプロレスに意味と思想を付与した。
「プロレスとは蘭魂である」
「プロレスは最強の格閲技であり、キング・オブ・スポーツである」
「誰の挑戦でも受ける」
プロレスラーは本来、娯楽を提供するエンターテイナーであるにもかかわらず、アントニオ猪木は、自らの哲学、自らの武士道を語った。
猪木の哲学や思想にたいした中身があるはずもない。
しかし、美しい肉体を持つプロレスラーが自分の哲学や思想を持つ、ということ自体が、革命に挫折し、鬱屈していた若者たちの心に強く響いた。
猪木はサブカルチャーのヒーローとなったのである。
このへんについては、全くそのとおりだと思います。
後に、全日本プロレスの四天王プロレスが人気を博したのも、そういう理由なんでしょうね。
ジャイアント馬場からすれば、「猪木の哲学や思想にたいした中身があるはずもない」ことがわかっているからこそ、「どっちも同じプロレスなのに」と思ったでしょうけどね。
そうしてみると、よく、ビジネスでは、自分がピンチなときは逆にチャンス、なんていいますが、まさにアントニオ猪木の場合がそうだったのかもしれません。
プロレスはまさに人の生きざまや社会の縮図ですね。
昭和プロレスはまことに奥が深いです。
2014-06-22 16:38
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馬場の全盛期はやはり日本プロレス時代だったと思います。
力道山や猪木みたいに『カリスマ』的に語られませんが、あの頃の馬場は間違いなく大スターでした。
殺気立った大人のファンに混じって、子供だった私達も32文ロケット砲が炸裂するのを待ち、胸を高鳴らせて試合を見つめていたものです。
あの頃の重厚なプロレスはもう見られないですね。
by ジャントニオ猪馬 (2015-01-22 00:20)
追伸…
で、その後のプロレスというのはどうも軽薄なものになってしまったと思うのは私だけでしょうか?
会場は黄色い声が増え、のべつ『○○コール』がお約束…なんてのは、ファンがただ騒いでいるだけに見えてしまうのです。
息を潜めて一発を待ったあの頃…馬場の32文や猪木の卍固め、野球では王・長嶋の一打もそうでした。
by ジャントニオ猪馬 (2015-01-22 00:37)