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アントニオ猪木をオープン選手権で黙らせる計画は本当だった……

アントニオ猪木。昭和プロレスの中では、同期であるジャイアント馬場に対する強烈な対抗意識が語りぐさです。新日本プロレスを設立後は、つねにジャイアント馬場を挑発。いつでもどこでもたたかうと言っていましたが、実際に全日本プロレスが「オープン選手権」を開催すると、ピル・ロビンソンとの一騎打ちが決まっていることを理由に不参加を表明しました。

ロビンソン戦のときだけ抜ければ、参加できないことはなかったはずですが、アントニオ猪木が不参加を表明した最大の理由は、全日本プロレスがガチンコの強いレスラーを集めてアントニオ猪木を潰すつもりであるからだと当時から言われました。

誰かが公式にそう表明したわけではないので、それは今まで噂に過ぎなかったわけですが、『Gスピリッツ Vol.17』(辰巳出版)では、ジャイアント馬場の初代フィクサーと云われた元・『プロレス&ボクシング』編集顧問の森岡理右氏がインタビューで、「あの『猪木抹殺計画』は私のアイデアです」とはっきり認めています。

あの『猪木抹殺計画』は私のアイデアです
『Gスピリッツ vol.17』(辰巳出版)より

大会の主旨は「広く門戸を開放し、各団体から代表選手の参加を求め、広く対戦する機会を提供する」というもの。これは猪木の執拗な対戦要求に対する「試合をしたければ、この大会に参加してください」という馬場の回答でもあった。

「あれは僕のアイディア。猪木を黙らせようとしてやったんだよ。『オープン選手権』という名称にしたのは“対戦したがっている猪木さんに対してもオープンな姿勢ですよ”という意味だから。それでガチンコの強い連中を集めてね。僕と馬場、原ちゃんでヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル)に籠って、“一番手はホースト・ホフマン、次にディック・マードック、そしてハーリー・レイス、よしんば猪木が勝ち上がってきたとしたら、最後はデストロイヤーを当てて…”とカードを全部考えていたから。当時でもデストロイヤーは強かったからねえ。他にもパット・オコーナー、ミスター・レスリング、ドン・レオ・ジョナサンといった静々たる連中がいたわけだから、どうやったって猪木は勝てないよ」
ーあの大会は試合形式がリーグ戦でもトーナメントでもない大相撲形式の形でしたから、そうなればカードを自由に組めますね。
「どっちにしろ猪木が来れるわけがないんだよ。それから猪木は、一言も何も言わなくなった。言えないわな。“いつ、どこでも馬場に挑戦してやる!”と言っていたところに、猪木のために用意してやった『オープン選手権』だからね。こっちにしてみれば、“これに来れないとは何事か!”と」
ー馬場サイドとしては、猪木さんが黙ればそれでいいし、来たら来たでガチンコでやっちゃえばいいと。
「そうそう。両刃の構えだった。猪木だって、馬場の会社の興行にノコノコ出て行って儲けさせる必要もないじゃない? そういうことをわかりながら、自分では“馬場とやりたい”と言っていたんだから、“アホらしくて付き合ってられない”というのが馬場側の感じていたこと。だから、黙らせるだけで十分だったんだよ。でも、もし猪木を参加させていたら新日本の将来はなかったね」
(『Gスピリッツ vol.17』(辰巳出版)「あの『猪木抹殺計画』は私のアイデアです」より)

オープン選手権に、国際プロレスは参加しました。それだけに、対戦を迫っていた新日本プロレスの参加がなかったことは、両団体の緊張状態やTV局の強さを改めて知ることとなりました。




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もっとも、国際プロレスとて、全日本プロレスとの友情とか反猪木陣営についたとかいうよりも、たんにビジネス上メリットがあったから参加したのだと思います。

全国ネットの日本テレビ系列に、ラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の3人の試合が放送されますし、オープン選手権の興行の内、4大会の権利を国際プロレスに渡しています。

国際プロレスとしたら、あれだけの豪華メンバーを呼んだ大会を4大会も主催できたのです。国際プロレスは12月の興行はありませんでしたが、自分のところで赤字興行をうつよりは、その4大会で利益を出せて結果的に儲かったのではないでしょうか。

大会の途中では力道山13回忌の大会も行われ、日本プロレス時代にリングアナウンサーだった篠原長昭氏が久しぶりに表舞台に登場していましたね。

アントニオ猪木はそれにも参加しないで、百田敬子氏は「もう力道山の弟子ではない」というコメントを発表していましたが、まあ、普通の年忌法要ではなくて全日本プロレスの興行がそういう大会名をつけただけですから、ライバル団体の人が参加できるわけはありません。

ちなみに、ジャイアント馬場3000試合出場記念のバーン・ガニア戦のときは、アントニオ猪木から祝福の花束が来ていましたね。

その頃はだいぶ丸くなったのでしょうか。

それにしても昭和プロレス、いろいろあります。

森岡理右氏のインタビュー。面白いので、次回以降ももう少しご紹介します。

Gスピリッツ Vol.17 (タツミムック)

Gスピリッツ Vol.17 (タツミムック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 辰巳出版
  • 発売日: 2010/09/29
  • メディア: ムック

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キャラメルクラッチ

ジャイアント馬場の記念すべき「連続出場3000試合目」のカードは、
「怪人ザ・シークとのシングル戦」
だったと記憶しております。
昭和55年のチャンピオン・カーニバル(ジャンボ鶴田初優勝)の最中でしたが、ザ・シークはシリーズ後半のみ特別参加でしたので、非公式戦。結果は両者反則か何かで引き分け。
テレビ中継も無い平凡な地方大会のひとコマとして、偉業が達成されたのです。






[晴れ][晴れ][涙][わーい(嬉しい顔)]
by キャラメルクラッチ (2014-10-13 19:16) 

キャラメルクラッチ

上記のコメント、不要な絵文字が末尾に紛れ込んでしまって、失礼致しました。
by キャラメルクラッチ (2014-10-13 19:20) 

ヨッシー

初めて投稿させて頂きます。日プロ末期からの馬場さんファンです。
当時、対大木戦、オープン選手権、と、馬場さんの逆襲が頼もしく感じました。  後から猪木さんの参加想定の深い話を読み、なるほど厳しい
社会だなと思ったものです。また猪木ーロビンソン戦が悔しいけど凄く
良くて、これを超える試合内容がオープン選手権になくて、苦々しく思ったものです(個人的に)

オープン選手権の決勝が、馬場ードリーで試合内容が良かったとしても
当時の馬場さんのコンディションではやはり悔しいけど猪木ーロビンソン
には及ばなかったと想像します。・・ということは、あれはあれでベター
だったかなとも思います(苦笑)


最近購入した本(ベースボールマガジン)で馬場さんのNET放映試合
が記録されていましたが、NTVがだめなら、NET放映分・・なんとか
DVD等で陽の目を見ないでしょうかね。好カードあると思うのですが。

好き勝手なことばかり話して気を悪くされたら失礼(汗)






by ヨッシー (2014-10-18 20:10) 

昭和プロレス

>>by キャラメルクラッチさん
仰るとおりです。
あとでそれを知った馬場が、「そうと知っていたら
もっとちゃんとした相手とやっておけばよかった」と
コメントしていますね。
それもあって、3000試合記念は第1弾がガニア
第2弾がレイス戦だったのだと思います。
by 昭和プロレス (2014-12-01 12:44) 

昭和プロレス

>>by ヨッシーさん
仰るとおりですね
猪木のほうが5歳も若いし、「強くなりたい」という
真摯な気持ちは馬場に優っていたと思うので
緊迫した技の応酬のような、いわゆるストロングスタイルでは
馬場は分が悪かったかもしれません。
私もNET時代の試合みたいですね。
たしか初登場は前の試合がもつれたため馬場が
乱入したのを覚えています。
by 昭和プロレス (2014-12-01 12:49) 

ヨッシー

NET放映分は記憶ないので、初登場のお話、初めて聞きましたし
雑誌に載っていない貴重なシーンですね。ありがとうございます

観たかったです。あとマスカラスやバレンタインとの試合も観たい
と思いました。


by ヨッシー (2014-12-03 11:54) 

ジャントニオ猪馬

オープン選手権ではあの篠原長昭リングアナが登場していたのですか!!
馬場/日プロ時代の、独特のクセのある、それでいて重厚なアナウンスが懐かしいですね。
by ジャントニオ猪馬 (2015-01-28 23:42) 

じゃんとにおいのば

むかしあるところに、だれもがしっているおおきなやまがありました。
おおきなやまは、とつぜんのわざわいでくずれてなくなってしまい、ひとびとはかなしみにくれました。
そのあとには、ゆたかなとちができるかとおもわれましたが、いっとうのうまがはしりだし、ときどきとんだりするうまに、ひとびとはびっくりしました。
うまはにんきものになりました。
となりのちいさなむらには、びるがたったこともありました。

いつしか、うまのあとからいのししがおいかけ、おいぬいていきました。
いのししはとてもいせいがよくて、ひとびとのにんきものになりました。
そのあと、つるだのりゅうだのとらだのがあらわれ、ひとびとはとてもげんきなきもちですごしました。

うまはおじいさんになってもはしりつづけましたが、とつぜんいなくなってしまい、ひとびとはとてもかなしみました。
いのししはあるひ、はしるのをやめてしまいました。

やがてひとびとはげんきをなくしてしまい、ばらばらにはなれていきました。
あのころのにぎわいはもうありません。おおきなやまと、うま、いのししは、いまではひとびとのたいせつなおもいでになっています。
by じゃんとにおいのば (2015-03-03 17:26) 

HONDA

S50年のオープン選手権はひともんちゃくあったのを覚えています。猪木がK・ゴッチを連れて参戦なんて噂もあり、KゴッチとHレイスがセメントでやれば?なんて話も週間ファイトで読んだ記憶あります。まあ馬場のやりかたはそんなもんでしょう、S46年の7月に 全日プロレスを設立時も 「インター選手権を退職金として持っていきたい」というのを 日本TVの生放送で「来週 大木金太郎が G馬場のインター王座に挑戦・・として 大木が放送席で抱負を語っていました」これ見たとき?何がどうなってるの?と高校生の自分は思いましたが、その後 その試合について一切の説明がTVでなかったもんです。結局 馬場は自分では「やらない」ということです。
by HONDA (2020-11-30 21:39) 

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