ジプシー・ジョーの訃報が話題になっています。国際プロレス、全日本プロレスで活躍したレスラーです。昭和プロレスとしても思い出深いレスラーです。WINGプロモーションの試合で、ミスター・ポーゴに敗れて引導を渡されたのが、もう20年ぐらい前のはずです。ゆっくり余生を過ごせたのでしょうか。
ジプシー・ジョーの試合については、ニコ動で、ラッシャー木村とのIWA世界ヘビー級選手権(金網デスマッチ)の動画が残っていますね。
解説が、菊池孝さんでもなく、芳の里淳三さんでもなく、門馬忠雄さんでもなく、竹内宏介さんなので、東京12チャンネルの放送としてはかなり初期ではないでしょうか。
試合結果は、ラッシャー木村のノックアウト勝ちです。
まだ、ラッシャー木村は喉が潰れていないので、マイクで、「何度でも戦ってやる」とハッキリ聞き取れるマイクアピールをしていました。
しかし、「なんどでも戦ってやる」というのは、何度でもチャンスを与えるということなのて、考えてみると、相手に対して心優しい話ですね。
「お前との戦いは終わった。俺はもっと強い奴とやる。戦って欲しかったら実績作ってこい」とは言わなかったわけですから。
当時は、ジプシー・ジョーが、国際プロレスの看板レスラーだったからでしょうね。
常連の強豪外人というと、アレックス・スミルノフ、キラー・ブルックス、そしてジプシー・ジョーといったところでしょうか。
考えてみると、3人とも、国際プロレス崩壊後は、全日本プロレスのリングにすぐに上ってるんですね。
アレックス・スミルノフは髪を生やしてました。
ジプシー・ジョーは、ジャイアント馬場らとも戦いましたが、全日本プロレスは大型選手が多いので、格としてはジュニアヘビーの扱いだったような気もしました。
それはともかくとして、この試合をジプシー・ジョーの追悼の思いで観ていた所、懐かしい人を見つけてしまいました。
レフェリーは前溝隆男がつとめていたのです。
阿部修一枚看板だった国際プロレスレフェリーに、前溝隆男が加わったのは、まだ国際プロレスがTBSで放送されている頃だったと思います。
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テンパらない人生を望んだ
『王の闇』(沢木耕太郎著、文藝春秋社)という、24年前に上梓された書籍には、元全日本ミドル級チャンピオンとしての前溝隆男が描かれています。
前溝隆男は、父親が商社マンで、トンガに単身赴任していた日本人。母親がトンガ人の間に生まれました。
中学を出ると来日して三保ヶ関部屋に入門。
負け越し無しで幕下まで昇進したものの、トンガ人特有の縮れ毛を客にからかわれて廃業。
次にプロボクサーは全日本ミドル級王座を獲得するものの、こちらも世界王座に挑む前に引退。
その次はプロボウラー。レッスンプロまで行きますがトーナメントプロにならず。
そして、国際プロレスのレフェリーに。
世間は狭いというか、前溝隆男は、ジャイアント馬場が巨人をクビになった頃、川崎市新丸子でご近所だったそうです。
そのため、ジャイアント馬場が、全日本プロレス設立時に国際プロレスから選手を借りたお礼に国際プロレスのリングに上った時、一緒に移動した楽しい思い出も書かれています。
しかし、前溝隆男はそこからまたボクシングの新団体に転職しています。
そんな前溝隆男のモットーは、
モヘペ、カイペ、エヴァノヘ、タラノアへ
(トンガ語で、「寝て、食べて、散歩して、お喋りをする、それだけ」という意味)
「人生何をやっても大成功はしないけれど、何をやっても楽しくやれるんです」
ということだそうです。
要するに、前溝隆男が、どの世界に入っても、せっかく順当に力をつけながら、頂上を極める前に転職してしまうのは、飽きっぽいからではなく、上昇志向のテンパった人生を望んでいないから、ということらしいのです。
私は、そう語る前溝隆男の、おおらかな生き方が大変気に入ってしまいました。
前溝隆男は健在なのでしょうか。
昭和プロレスを担った人として、気になっています。
王の闇 (文春文庫)
- 作者: 沢木 耕太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1992/08
- メディア: 文庫
2016-06-18 04:48
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